第1話
ぼやけた視界が、ゆっくりと、輪郭を結んでいく。
まだ、意識は半分、夢の中に沈んでいた。
最後に聞こえた、あの低く、強い声が、まだ耳の奥でこだましている。
『――この世界は、おまえのものだ』
……誰だったんだろう?
すごく大切なことを言われた気がするのに、思い出せない。
霞がかかったように、するりと逃げていく。
思考は、誰かが一度グシャグシャに丸めて、もう一度無理やり広げた紙クズみたいに、しわくちゃで、不明瞭だった。
最初に、現実として認識したのは、匂いだった。
ツン、と鼻の奥を刺す、有機溶剤の匂い。
夢の中の匂いが……まだ、続いてるのか?
嗅いでいると、強張っていた肩から、すっと力が抜けていく。
理由なんて、何ひとつ思い出せないのに。
ただ、すごく――懐かしい。
この匂いはずっと昔から嗅ぎ慣れている。
きつい匂いのはずなのに、不思議だった。
ガツン!
「痛っ!」
頭を、何かにぶつけた。
狭い。
息苦しい。
膝を抱えた、体育座りのまま。
自分は小さく狭い、真っ暗な場所に閉じ込められていた。
(なんだっ、なにが、どうなってる!)
込み上げてくる恐怖に、叫びながら、体をよじる。
ドラム缶みたいな硬い壁に、四方からぴったりと包まれている。
心臓の音だけが、狭い壁の中で、やけに大きく響く。
息を、吸う。
浅い。
吸っても、吸っても、足りない。
吐いた息が、すぐ目の前の壁に当たって、生ぬるく、顔に跳ね返ってくる。
このまま、ここの空気を、吸い尽くしたら。
出して。
出してくれ……!
固い壁を、爪で掻く。
カリ、カリ、と乾いた音が、跳ね返ってくるだけ。
何度引っ掻いても、つるりとした壁が、指先を弾き返す。
誰にも知られないまま。
この暗闇の中で、終わる――。
(上……だ)
なんとか手を伸ばすと、頭の上だけが、開いているのがわかった。
上に向かって窄まっていく、狭い口。
そこへ、頭から、ねじ込む。
抜けられる……いや、肩が、つかえた。
構うものか。
押し込む。
芋虫みたいに、身をくねらせて。
頭が抜けて、肩が抜けて――
最後に、足の先が、ずるりと滑り出た。
冷たい空気が、ひといきに、流れ込んでくる。
「……はっ……ぁ……は……っ」
最初のひと息を、むせ返りながら、吸い込んだ。
膝を抱えた格好のまま、しばらく、動けない。
濡れてもいないのに、体の芯が、小さく震えていた。
振り返る。
自分が閉じ込められていたのは――薄くて、半透明の、つるりとした、奇妙な筒だった。
腰のあたりが、きゅっとくびれて。
その上が、なだらかに窄まって、小さな口になっている。
ずんぐりとした、見たことのない形。
なぜ、こんなものに?
筒の外は暗い、ジメジメした、場所だった。
暗い。
暗い。
とにかく、暗い。
(だが……どうして)
光源など、どこにも見当たらないのに。
うっすらと、ぼんやりと、視界だけは、広がっている。
「……ん……?」
体を起こそうとした。
その瞬間――信じられない感覚に、襲われた。
軽い。
まるで、自分の体重なんて、最初からないみたいに。
上半身が、勢いあまって跳ね起きる。
バランスが、取れない。
「ぐあっ!」
ドスンッ!
情けない声と一緒に、硬い床に転がり落ちた。
打った肩と、尻が、鈍く痛む。
「痛い……なんなんだ……体が、おかしい……」
床に手をついて、自分の手を、じっと見つめる。
握って、開いて、また握る。
指は、滑らかに動く。
痛みも、痺れもない。
だが。
自分の意志で動かしてるはずなのに、どこか、他人の体を借りているような――拭えない、違和感。
そして、視界。
やはり、何かが、おかしい。
目の前にあるはずの、自分の指先が、ほんの少しだけ、歪んで見える。
世界全体が、薄いガラスか、水の中を通したみたいに、微妙に、屈折している。
どうにも、もどかしい。
でも、どうにもならない。
何かが――視界を、物理的に、遮っている。
無意識に、顔へ手が伸びた。
そして、その原因に、触れる。
額から、頬骨、鼻筋にかけて。
硬質で、滑らかな感触。
指で、輪郭をなぞる。
顔の大部分を覆う、ぴったりとした、一枚の曲面。
ゴーグルだ。
間違いない。
目を保護するための、あのゴーグル。
なぜ、寝ている間も、こんなものを?
混乱した頭で、必死に、記憶を手繰り寄せる。
最後に覚えていることは?
寝る前、何をしていた?
ここは、どこだ?
自分は――誰だ?
答えは、何ひとつ、返ってこない。
頭の中は、真っ白なノイズが、渦巻いているだけ。
思い出せるのは、本当に、あの夢だけだ。
恐ろしくリアルな、戦場のディオラマ。
不器用だけど、優しい声の、老人。
プラモデルの、話。
そして――あの、言葉。
ふらつきながら、周りを、見回す。
よく見ると、床も、壁も、打ちっぱなしのコンクリートみたいな素材でできていた。
部屋……いや、違う。
これは、通路だ。
幅は、10メートルはあるだろうか。
とほうもなく、巨大な通路。
天井は、高すぎて、見えない。
床は、半分ほど土が堆積していて、湿気で、柔らかくなっている。
踏むたびに、ぐちゃり、と足が沈んだ。
あちこちに、よくわからない機械みたいな――自分の背丈ほどもある、用途不明のガラクタが、転がっている。
なんなんだ、この場所は。
ふと、壁の一角に、大きな筒が横倒しに転がっているのに気づいた。
薄茶色。
透明な素材でできていて、まわりのものを、ぼんやりと映している。
そう――自分の姿も。
ふらつく足で、それに近づく。
そこに映っていたのは……まったく見覚えのない、少年だった。
歳は、十代の半ばくらい。
自分の、はずだ。
ひょろりとして、どこか頼りない体つき。
体にぴったり張り付く、灰色の、機能だけを追求したような、お世辞にも格好いいとは言えない、つなぎ。
そして、顔には――目の周りをすっぽり覆う、見たこともない形の、ゴーグル。
誰なんだ、これは。
(これが……自分?いや、見た目が少年だから、僕、なのか!?)
なぜ、こんな格好を。
なぜ、ゴーグルを。
記憶は、どこへ消えた。
筒に手をついて、その中の少年と、睨み合う。
僕自身の、はずの存在。
でも、問いかけても。
筒に映る少年は、ただ困惑した顔で、こちらを見つめ返すだけだった。
そうだ――ゴーグルだ。
この、視界を邪魔する、わずらわしいもの。
これを外せば、何か変わるかもしれない。
そうだ。
きっと、そうだ。
これは、VRゴーグルで。
今見えているものは、ぜんぶ、作り物の仮想空間で。
外した瞬間に、こんな悪夢は、終わるんだ。
そうとしか、思えなくなっていた。
決意し、ゴーグルの縁に、指をかける。
硬いフレームが、指先に食い込んだ。
ぐっと、力を込めて。
顔から、引き剥がそうとした――その、瞬間。
カサリ。
闇の奥で、何かが鳴いた。
ためらうように、指が止まる。
……今の、なに?
心臓が、嫌な跳ね方をした。
理屈じゃない。体の奥の、もっと古い部分が、告げている。
ここにいてはいけない。
そっとゴーグルから手を下ろした。
外すのが、急に、怖くなった。
自分の顔さえ、思い出せない。
名前も、声も、ここに来るまでのことも。
頭の中には黒い水が満ちていて、覚えているはずのものは、全部その底に沈んだまま動かない。
考えるのをやめて、前へ歩き出した。
振り返ったら、何か取り返しのつかないものに、捕まる気がした。
進むほどに、空気が重くなっていく。
さっきまで、あんなに懐かしかったはずの、有機溶剤の匂い。
それが、ここでは――あまりにも、濃すぎた。
湿気を吸った、カビ臭い地下道の匂いと混ざり合って、どろりと、喉の奥にからみついてくる。
安心する匂いの、はずなのに。
今はもう、ただ、息苦しいだけだ。
吸うたびに鼻の奥が焼けて、肺がそれを嫌がって縮こまる。
どこまで歩いても、出口がない。
光もない。
あるのはただ、頭の中をじわじわ塗りつぶしていく、二文字だけ。
絶望。
足元にも、頭の上にも、得体の知れないガラクタが山積みになっている。
巨大で、ぬめっていて、意味のわからない金属とプラスチックの塊。
まるで、世界中のゴミを投げ捨てた、巨大なゴミ箱の底を虫のように這い回っているみたいだった。
かさ……かさ……かさ……
僕が歩くたびに、床に積もった乾いたゴミか、砂のようなものが、小さな音を立てる。
この薄暗く、静まり返った通路では、その音だけが、唯一のBGMだ。
早く、ここから出ないと。
なんでもいい。明るい場所へ。
かさっ!
不意に、自分の足音とは違う、乾いた音が、すぐ近くで聞こえた気がした。
足を止め。
息を殺し。
耳を澄ます。
…………しーん……。
気のせい、か……?
いや……。
カサカサッ!
まただ!
今度は、もっとはっきりと!
しかも、近い!
何か、いる――!
カサカサカサッ! カサカサカサッ!
音は、一つじゃない。
いや――違う。
一つの何かが、凄まじい速さで、床や壁を引っ掻きながら、近づいてくる音だ!
だんだん、大きくなる!
だんだん、早くなる!
「ひっ……!」
恐怖に、全身が硬直した。
振り返らなきゃ。
でも――振り返ったら、そこに、何かいたら?
カサカサカサカサカサカサッ!!!
音は、もう、すぐ背後に迫っている!
意を決して、勢いよく振り返ると。
そこにいたのは、人類が想像しうる、最も恐ろしい悪夢を具現化した存在だった。
黒く、平べったい、流線型の体。
鈍く、油で汚れたように光る外殻。
長い触角が、ゆいん、ゆいん、と蠢いて、僕の存在を探っている。
無数の節を持つ脚が、壁や床を不規則に引っ掻いて、あの不快な音を立てていた。
ゴキブリだ!
僕の身長よりも、はるかに大きい。
巨大すぎるゴキブリが、ほんの数メートル先まで、迫ってきている!
「いや……あ……」
腰が抜けて、僕は再び、尻餅をついた。
後ずさろうとするのに、恐怖で、体が言うことを聞かない。
「ギチギチギチギチギチギチッ!」
牙を打ち鳴らし、動くたびに関節が擦れる、「ギチッ!」という音が、不快極まりない。
いや、ゴキブリは、雑食だ。
生き餌は食べない、って、聞いたことがある。
見た目が、悪いだけ。
きっと、このまま、僕の隣を、通り過ぎるだけ……。
「ギチギチギチッ!」
違う。
このゴキブリの怪物は、明らかに、僕を「餌」だと認識している!
その巨体が、信じられないほどの敏捷さで、僕に向かって突進してきた!
「うわあああああああああ!!!!」
反射的に立ち上がり、脇目もふらずに逃げる!
狭い通路を、ただひたすら、走る!
「ギチギチギチギチギチッ!」
後ろから迫る、威嚇するような「ギチギチ」という音!!
心臓が張り裂けそうだ!
走って、走って――
でも、ダメだ。
逃げ場なんて、どこにもない。
行く手は、崩れたガラクタの山に、阻まれていた。
もう、終わりだ。
万事休す、と思った、その時――
足が、何かに躓いた。
「うわっ……!」
たまらず、前のめりに、転倒する。
したたかに打った手のひら――その、すぐ先に、それは転がっていた。
細長い、柱状の何か。
自分の背丈よりも、はるかに長い。
まるで巨大な鉄柱みたいな質量。
本来なら、持ち上げるどころか、動かすことすら無理なはずの物体。
背後では、もう、あの「ギチギチ」という音が、すぐそこまで迫っている。
考えている時間なんて、なかった。
僕は、地面に這いつくばったまま、その柱へと必死に手を伸ばし――
縋りつくように、両手で、固く握りしめた。
でも、その瞬間。
僕の体の中で、何かが爆発した。
頭の芯に、熱い衝撃が走る。
握りしめた『柱』を通して、奇妙な感覚が、全身を駆け巡った。
軽い。
信じられないほど、軽い。
まるで自分の手足の延長みたいに、その巨大な質量が、吸い付くように手に馴染んだ。
ゴキブリの顎が、目の前に迫る。
死が、すぐそこで、口を開けていた。
その恐怖が、体を突き動かした。
腕に、自分のものとは思えない速さと力が宿る。
僕は渾身の力で、その柱を、ゴキブリの脳天めがけて突き出した。
ガツンッ!
凄まじい衝撃音と共に、鋭い先端がゴキブリの頭部を捉え、背後の壁へと縫い付ける。
「ギチギチギチギチィッ――!」
耳を裂くような断末魔が、鼓膜を抉った。
でも――死んでいない。
壁に縫い付けられたまま、太い脚が、狂ったように宙を掻く。
足先の醜い爪が頬をかすめる。
皮膚が裂けて、熱い線が走った。
一瞬でも気を抜いたら、死ぬ。
それだけの狂暴な生命力が、まだその巨体には満ちていた。
「死ね……死ねッ!」
半狂乱になりながら、何度も、何度も、柱を引き抜いては、突き立てた。
突き刺す、という一点において、その武器は、恐ろしいほどの威力を発揮した。
甲殻を、肉を、骨を、ブチ抜く肉厚な手応えが、腕を通して、直に伝わってくる。
裂けた節々から、生温い体液が噴き出した。
腐った油みたいな臭いが、顔にかかる。
「うっ……気持ち悪い……」
胃の底からせり上がるものを、奥歯を食いしばって、押し戻す。
涙か、汗か、体液かもわからないもので顔がぬめる。
それでも手は止めない。
ガジュッ、ガジュッ、ガジュッ、ガジュッ……
柱を振り下ろし続けて、どれくらい、時間が経っただろう。
気がつくと。
足元には、バラバラに引き裂かれて、完全に沈黙したゴキブリの残骸が、体液の海の中に転がっている。
「ギチ……ギ……」
最後まで、不快な擬音を残して、その巨体は完全に動かなくなった。
生き延びた。
だが、勝利の余韻など、どこにもない。
残ったのは、嘔吐をこらえる吐き気と、体の芯から生気が抜けきった疲労感。
そして――何も現状が変わっていないという、空っぽの確信だけ。
(勝ったんじゃない。ただ……死ぬのが、少しだけ先延ばしになっただけだ)
濁った目で、僕は、自分が握りしめている『武器』を見つめた。
「……これ、は……?」
その瞬間だった。
弾けたように、周囲の景色の「意味」が、一気に脳内へ流れ込んできた。
僕が、死にものぐるいで振り回していたもの。
鉄柱だと信じて疑わなかった、その武器は――
巨大なフォークだった。
二股に分かれた、ちっぽけな爪。
短くて、細い柄。
ステーキに突き刺す、あの無骨なフォークですらない。
ケーキを、上品にひと口ずつ切り分けて食べるための――子供の手にだって収まる、ささやかな、ケーキフォーク。
それが、自分の身長よりも大きいのだ。
僕は、これで。
一本のケーキフォークで。
悲鳴をあげて、涙を流して、汚物みたいな体液を浴びながら――
一匹のゴキブリと、死にものぐるいの死闘を、演じていたのだ。
「……うそ、だろ……」
理解した瞬間、膝から下の感覚が、すっと消えた。
視線を、周囲に巡らせる。
さっきまで用途不明のガラクタに見えていたものの正体が、次々と、明瞭になっていく。
転がっている大きな湾曲した鉄板は、スプーン。
山積みにされた巨大なプラスチックの塊は、洗濯バサミ。
頭上をうねる不気味な太いパイプは――ストロー。
何もかもが、ありえないほど巨大だった。
いや、違う。
一瞬、安堵にも似た理解が、胸をよぎった。
(これが、ただの食器なら……?ここは、狂った異界なんかじゃない! 僕の知ってる世界の、どこかなんだ!)
その理解こそが、僕をさらなる奈落の底へ突き落とした。
死んでもなお、不規則にピクピク動いているゴキブリの脚を踏みつけながら、僕は全力で走り出した。
一秒も、ここにいたくなかった。
無我夢中で暗闇を駆け抜けて、ようやく足が止まったとき。
凍りついた。
見覚えのある、景色。
そこは――僕が、最初に目覚めた場所だった。
壁際に転がる、薄茶色をした、半透明の巨大な円柱。
さっき、見知らぬ少年を映していた、あの筒。
でも、今なら、はっきりとわかる。
ただの、ガラスでできた、ジュースの瓶だ。
ありふれた、子供でも片手で持てる、あの瓶。
それが、僕を見下ろすほどに、そびえ立っている。
世界が、巨大なんじゃない。
狂ったのは、世界じゃない。
自分?いや、僕だ。
僕の体が。
ケーキフォークを鉄柱だと感じて。
ジュースの瓶を、塔みたいに見上げて。
ゴキブリ一匹に、殺されかけるほどに――
虫けらと変わらないくらい、小さく、縮んでしまったんだ。
見上げるほどに広大なこの通路も。
枯れた水路か、通風口か、そんなものなのだろう。
誰にも顧みられず、ゴミと死骸だけが降り積もっていく、世界の裏側の、すき間。
記憶を失い。
名前を失い。
たった一人で。
ゴミ溜めの底に、虫けらの体のまま、放り出されていた。
薄茶色のジュース瓶に、ぼんやりと、一人の少年の姿が映っている。
痩せた頬を血で汚して、見開いた目に、怯えを貼り付けた、見知らぬ少年。
それが、自分なんだって、頭ではわかる。
でも――。
どれだけ見つめても、その顔に、覚えはなかった。
僕は、その見知らぬ少年と見つめ合ったまま。
ただただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
この話に出てきたケルバーダインは、全部、本当に作った機体です。
実物の写真と作り方は ▶ https://klberdyne.com
気に入った機体があれば、ぜひあなたも作ってみてください。真似されたら光栄です。
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