第11話「地図が要らない夜」
調査の初日は順調だった。
目的地は王都から馬で二日ほど東にある、古い水神の祠だ。祠に刻まれた魔法陣の記録を取るのがエイダンの仕事で、アリアはその補助として記録用紙に数字や図を書き写す役割を担っていた。
思ったより息が合った。
エイダンが寸法を読み上げると、アリアがすぐに書き取る。エイダンが「次」と言う前に次の欄を開いておく。細かい模様を写し取るとき、アリアが用紙を押さえていると、エイダンがペンを走らせやすそうだった。
「お前、仕事が早いな」
夕方、祠の調査を終えたところでエイダンが言った。
「記録整理の仕事で慣れました。褒めてますか」
「そうだ」
あっさりと言われて、アリアは少し照れた。
宿は祠の近くの小さな村に一軒だけあった。
フロントで部屋を聞くと、女将が申し訳なさそうな顔をした。
「今日はうちの親戚が来てましてね、部屋が一つしか空いてなくて」
アリアとエイダンは顔を見合わせた。
「……また二人部屋ですか」とアリアが小声で言った。
「構わないだろう」とエイダンが即答した。
アリアは地図をポケットの中でそっと握った。
(あなた、またやりましたね)
地図はもちろん答えない。
夕食を終えて部屋に戻ると、外はすっかり暗くなっていた。
エイダンは机に向かって記録の整理を始めた。アリアも手伝おうとしたが、「今日はいい、休め」と言われた。
することがなくなったアリアは、窓辺に腰を下ろして外を眺めた。村の明かりが少なく、星がよく見える。王都では見られないくらい、空いっぱいに星が出ていた。
「きれいな星空」
独り言のつもりだったが、エイダンがペンを止めた。
「そうだな」
しばらく、ペンの音だけが続いた。
「エイダンさんって、星に詳しいですか。調査で各地に行くから」
「多少は。あの三つ並んでいるのが猟師座だ」
「どれですか」
アリアが窓の外を指さすと、エイダンが立ち上がってアリアの隣に来た。窓枠に手をついて、空を見上げる。
「あそこだ。少し右の」
「……どれだろう」
「ここから見ると、あの木の上あたり」
エイダンがアリアの後ろから腕を伸ばして、星の方向を指さした。
アリアは固まった。
エイダンの腕がアリアのすぐ隣にある。体温が近い。エイダンの視線は空に向いているが、アリアの顔はどこを向けばいいかわからなくなった。
「……あ、あの三つですか」
「そうだ。猟師が弓を引いている姿に見える」
「見えます、見えます」
全然見えなかった。頭の中が星どころではなかった。
エイダンがアリアの方を向いた。距離が近い。気づいたら、ほとんど真横に顔があった。
「どこを見ている」
「猟師座を」
「嘘をつくな。全然違う方向を見ていた」
アリアは観念して、エイダンを見た。
近かった。想像より、ずっと近かった。エイダンの目が、ランプの明かりを映してかすかに揺れている。
「…………」
「…………」
しばらく、二人とも動かなかった。
先に目を逸らしたのはエイダンだった。窓から離れて、机に戻っていく。
「早く寝ろ。明日も調査がある」
いつも通りのぶっきらぼうな声だった。でも耳が赤くなっていた。
アリアは窓の外に向き直って、冷たい夜風で顔を冷やした。心臓がうるさい。
(落ち着いてください、私)
地図をポケットから取り出した。暗くてよく見えないが、金色の模様がいつもよりにやけている気がする。
「笑わないでください」と小声で言った。
部屋の明かりが消えて、しばらく経った。
アリアはベッドの中で天井を見つめていたが眠れない。さっきの距離感が頭から離れない。
エイダンはもう寝ているのだろうか。寝返りを打つ音もしない。
「……アリア」
暗闇の中から、エイダンの声がした。
「はい」
「眠れないのか」
「……少し」
「俺もだ」
アリアは思わず笑いそうになった。あの無口なエイダンが、眠れないと言っている。
「何か考え事ですか」
「……ああ」
「言えますか」
「言えない」
即答だった。アリアはベッドの中で小さく笑った。
「エイダンさん、さっき近かったですよ」
言ってから、しまったと思った。でも暗闇のせいか、口から出てしまった。
しばらく沈黙した。
「……わかっている」
エイダンの声が、少し低くなっていた。
「意図的にそうしたというのは.....野暮か」
アリアは息を呑んだ。
野暮か、という言葉の意味を、頭の中でゆっくりと確認した。つまりそれは。
「……エイダンさん」
「なんだ」
「積極的ですね」
「……うるさい」
暗闇の中で、エイダンが寝返りを打つ音がした。こちらに背を向けたのかもしれない。
アリアはベッドの中で地図を握りしめた。手のひらの中でじんわりと温かい。
(これは地図のせいじゃなくて、私の気持ちですよ)
心の中でそう言ってから、目を閉じた。
「エイダンさん」
「……なんだ」
「おやすみなさい」
少し間があった。
「ああ。おやすみ」
アリアはゆっくりと息を吐いて、目を閉じた。




