第10話「この地図、やっぱりおかしい」
王都での生活は、思ったより忙しかった。
調査局の記録整理は地味な仕事だったが、やりがいはあった。何百年も前の魔法装置の記録や、各地の調査報告書を整理していると、王国の歴史が少しずつ見えてくる。先輩の同僚たちも親切で、アリアはすぐに仕事に慣れた。
給金は月末に金貨二枚。初めてもらったとき、アリアはしばらく金貨を握りしめたまま動けなかった。
少しずつ借金が減っていく。
ただ一つ、気になることがあった。
エイダンが、いない。
同僚に聞くと「また長期調査に出た」とあっさり言われた。王宮調査員というのはそういう仕事らしい。各地を転々として、戻ってくるのは報告書を提出するときだけ。
わかってはいた。エイダンの仕事がそういうものだということは、旅の間に十分見てきた。
でも。
「……寂しいとか、そういうことじゃないんですよ」
昼休み、中庭のベンチで一人、アリアは地図に語りかけた。
「ただ、どこで何をしてるのかなって、ちょっと気になっただけで」
地図はもちろん答えない。アリアは祈るように目を閉じた。
(エイダンさんは、今どこにいるの?)
現れた金色の線は、王都の城壁を越え、遥か遠くの北の方角を指している。
「……そんなに遠くに。相変わらず、飛び回ってるんですね」
線の先をぼんやりと眺める。どこにいるか分かるだけで、不思議と心細さは消えていった。
「早く帰ってきてください」
小声で言ってから、アリアは地図をしまった。
それから二週間が経った。
ある朝、調査局に出勤すると、廊下に見覚えのある黒いマントが見えた。
アリアは足を止めた。
エイダンだった。同僚と話しながら廊下を歩いてくる。手には分厚いノートを持っている。いつもと変わらない姿だ。
エイダンがアリアに気づいて足が止まった。
同僚が「どうした」と言ったが、エイダンは答えなかった。
アリアも動けなかった。
二人の間に、廊下の端から端ほどの距離がある。それがやたらと遠く感じた。
先に動いたのはアリアだった。
「……お帰りなさい」
声が少し上ずってしまった。エイダンは足を止め、しばらくアリアを凝視してから、一歩、また一歩と距離を詰めてきた。
「……ただいま」
低く、どこか安堵したような響き。それだけで、アリアの胸の奥はじんと熱くなった。
昼休みに、二人は中庭のベンチに並んで座った。
エイダンは報告書の締め切りがあるとかで、昼食もそこそこに書き物をしている。アリアはパンをかじりながら、その横顔を眺めた。
「どこまで行っていたんですか?」
「北の山岳地帯だ。古い魔法橋の調査に手間取ってな」
「大変でしたか?」
「……雪に降られた」
「えっ、もうそんな季節ですか?」
「ああ。山の上は、王都とは別の時間が流れている」
アリアは空を見上げた。確かに、最近は風に冬の気配が混じり始めている。
「お一人で、大丈夫だったんですか」
「……いつも一人だ。慣れている」
「でも、最近はそうじゃなかったですよね?」
エイダンのペンが止まった。
「……まあ、そうだな」
ぶっきらぼうなその一言に、アリアとの旅を懐かしむようなニュアンスが滲む。
アリアはこっそり地図を取り出した。
(今、私に必要な場所はどこですか)
金色の線が現れた。その先はベンチの隣、エイダンの座っている方向だった。
「相変わらず、ですね」
「何がだ」
「この子(地図)ですよ」
「……今度はどこを指した」
「ここです。……あなたの、すぐ隣」
エイダンは沈黙した。ノートをめくる手が止まる。
「……見せてみろ」
アリアが差し出した地図を、エイダンは無言で受け取った。消えかかっている金色の光を、彼は食い入るように見つめている。
「……俺の隣、か」
「はい」
地図を返すエイダンの指先が、アリアの手をかすめる。
「アリア」
「はい」
「……次の調査に、同行するか」
心臓が跳ねた。エイダンは手元のノートに視線を落としたまま、淡々と、けれど言葉を選びながら続けた。
「調査の記録補助という名目にすれば、局長の許可は下りる。もちろん、手当も出る」
「それって、つまり……」
「一人より、二人の方が効率がいい場合もあると言っている」
「……それだけ、ですか?」
「…………」
風が吹き抜け、枯れ葉がベンチの足元を通り過ぎる。
「……お前がいると、悪くない」
消え入りそうな、けれど確かな声。アリアはわざと、いたずらっぽく聞き返した。
「えっ? 今なんて言いました?」
「……聞こえていただろう」
「ちゃんと確認したくて。お願いします、もう一回」
「……しつこい」
「大事なことですから」
エイダンは深く溜息をつき、今度は少しだけ、不機嫌を装った大きな声で言った。
「お前がいると、悪くないと言ったんだ」
アリアは地図をぎゅっと握りしめた。
「……私も。エイダンさんと旅をするの、悪くなかったです」
「そうか」
「いえ、本当は……すごく、楽しかったです」
「……そうか」
エイダンの耳が赤くなっていた。今回はアリアも指摘しなかった。自分の頬も熱いのがわかったから。
昼休みが終わる少し前、エイダンが立ち上がった。
「報告書を仕上げたら同行の申請を出す。一週間ほどで出発になる」
「わかりました」
アリアも立ち上がった。エイダンが歩き出そうとして、ふと立ち止まった。
「アリア」
「はい」
「地図を出してみろ」
また唐突な言葉だった。アリアは首を傾げながら地図を取り出した。
「念じてみろ」
「何を、ですか?」
「……何でもいい。お前の望む場所でも」
アリアはエイダンの横顔を見つめ、それから静かに目を閉じた。
(私たちが……これから、本当に行くべき場所はどこ?)
地図から伸びた金色の線は、中庭を突き抜け、王都の門を越え、果てしない地平線の先へと続いていた。
「……どこまで伸びてるんでしょうね、これ」
エイダンがアリアの隣に寄り、同じ方向を見つめる。
「さあな。だが——」
「だが?」
「答えなんて、行けば分かることだ」
エイダンの力強い言葉に、アリアは深く頷いた。
「……そうですね。どこだって、大丈夫な気がします」
アリアは地図をしまった。
エイダンが歩き出した。アリアはその隣に並んだ。
中庭を並んで歩きながら、アリアはこっそり地図に言った。
「この地図、やっぱりおかしいですよ」
エイダンが「また地図に話しかけているのか」と言った。
「お礼を言ってました」
「地図に礼を言うな」
「でもこの地図がなかったら、エイダンさんに会えなかったので」
エイダンは何も言わなかった。でもアリアの隣を歩くその足が、少しだけゆっくりになった気がした。
ポケットの中の地図が、ほんのりと温かかった。
今度ばかりは、気のせいじゃないと思った。




