第8話 王子様、皿洗いが下手すぎます
祖母の貼り紙には、こうある。
> 一、玄関では、まず靴を脱がせること。
> 剣より先。
> 杖より先。
> 王冠より先。
> 泥のついた靴は、どの世界でも迷惑。
ミオは「王冠より先」の一文を見て、少し黙った。
「……王冠をかぶったまま来た人がいるんですね」
玄関の黒い箱が、手ぬぐいの下でかたりと鳴る。
『高貴な者ほど、頭の上のものを見せたがる』
「経験者みたいに言わないでください」
その日の《やかん屋》は、朝から騒がしかった。
リリカは台所で卵焼きを練習し、モップは縁側で布団を温めている。竜のヴァルドは離れで風呂釜の火を見張り、くしゃみをするたびに、ぼん、と小さく空を明るくしていた。
レオは一階の客間で寝ている。
昨日から「もう治った」と三回言ったので、ミオは三回とも布団をかけ直した。
「勇者様は今日も外出禁止です」
「俺、そこまで重症じゃないよ」
「重症かどうかは、包帯を巻いた人が決めます」
「厳しい」
「祖母ほどではありません」
レオは少し笑った。
「千代ちゃんは、もっと怖いからね」
ミオは手を止める。
「……ちゃん?」
「あ」
レオは布団を鼻のあたりまで引き上げた。
「寝ます」
「逃げましたね」
その時、裏口が鳴った。
こん。こん。こん。
三回目は客。
ミオが台所奥の裏口を開けると、少年が立っていた。
年は十五、六くらい。淡い金髪に、青い上着。泥はほとんどついていない。ただし、胸に小さな金の飾りを抱えていた。
王冠だった。
ミオは一秒だけ貼り紙を思い出した。
「宿泊ですか」
少年は息を整え、きっぱり言った。
「私を、ここで働かせてほしい」
「募集していません」
「待ってくれ。私は本気だ」
「本気でも、まず靴を脱いでください」
「いや、その前にこれを――」
少年は王冠を差し出した。
ミオは首を横に振る。
「王冠より先に靴です」
「王冠より?」
「貼り紙にあります」
少年は玄関の上を見た。そして、なぜか深くうなずいた。
「……なるほど。ここでは、王冠より靴が上なのだな」
「上ではありません。先です」
少年は慌てて靴を脱いだ。揃え方は、とてもきれいだった。
そこだけは、ミオも少し感心した。
「お名前を宿帳に」
「アルだ」
「本名ですか」
「今は、アルだ」
「では、アルさん」
ミオが宿帳を差し出した瞬間、台所の入り口から声がした。
「アルベルト王子?」
レオだった。
アルはびくりと肩を跳ねさせた。
「なぜ言うんだ、勇者!」
「知ってたから」
「今はアルだ!」
「じゃあ、アル」
ミオは宿帳と王冠を交互に見た。
「王子様ですか」
「違う。今は違う」
「王冠を持っていますが」
「これは……荷物だ」
「頭に乗せる荷物ですね」
玄関の箱が低く笑った。
『高貴な荷物である』
「箱様は黙ってください」
アルは拳を握った。
「私は王宮を出た。王子としてではなく、一人の人間として生きたい。何でもする。掃除でも、皿洗いでも、薪割りでも」
ミオは考えた。
人手は足りない。ただし、この宿では、人手が増えると騒動も増える。
「皿洗いは、できるんですか」
「もちろんだ。皿くらい」
その言い方に、ミオは嫌な予感がした。
十分後。
ぱりん。
台所に乾いた音が響いた。
リリカが振り向く。
「まあ。わたくしの初回より早いですわ」
「競わないでください」
アルは青ざめて、割れた皿を見ていた。
「すまない。皿が逃げた」
「逃げません」
「いや、手の中で急に角度を変えた」
「それは滑ったと言います」
「皿は剣より難しい」
レオが客間から笑いをこらえる声を出した。
「分かるよ、アル。皿は反撃してこない分、読みにくいよね」
「勇者様も台所から出入り禁止にしますよ」
レオは渋々と客間に戻った。
「皿洗いは中止です。今度は床拭きをしてみましょう」
ミオはアルに雑巾を渡した。
「床拭きならできる」
「雑巾は強く絞りすぎないでください」
「分かった」
ぎゅっ。
雑巾が裂けた。
ミオは静かに目を閉じた。
「アルさん」
「何だ」
「雑巾は敵ではありません」
「すまない。力加減が分からない」
「王宮で雑巾を絞ったことは」
「ない」
「でしょうね」
モップが廊下からやって来て、破れた雑巾をくわえた。くるる、と誇らしげに鳴く。
「モップ、それは食べ物ではありません」
アルはモップを見て目を丸くした。
「この聖獣は、掃除をするのか」
「宿泊料の代わりです」
「私より役に立っている……」
昼前には、アルの仕事は「玄関で靴を揃える」に変更された。
これはうまかった。
客の靴を左右ぴたりと揃え、泥のついたものは端に分ける。レオの靴だけは、少し遠くへ置いた。
レオが首をかしげる。
「アル、俺の靴だけ離れてない?」
「においが強い。危険物だ」
「靴だよ」
「剣より危ない」
ミオはうなずいた。
「正しい判断です」
「ミオまで?」
アルは少しだけ胸を張った。
「私は靴なら扱える」
「王子様の特技が靴整理でいいんですか」
「アルだ」
「アルさんの特技が靴整理でいいんですか」
「……今は、それでいい」
その時、裏口の向こうから騒がしい声が聞こえた。
「殿下ー!」
「どちらにいらっしゃいますかー!」
「陛下が大変お怒りですー!」
アルの顔がこわばる。
「追っ手だ」
ミオはすぐに戸を閉めた。
「宿の中で揉め事は禁止です」
「だが、私を連れ戻しに」
「鎧の方々は裏山へ案内します」
「なぜ裏山」
「廊下で暴れると、床が傷みます」
レオが客間から手を上げた。
「俺、道案内するよ」
「外出禁止です」
「裏山は外?」
「外です」
離れの方から、ヴァルドの声がした。
「兵ならば、風呂釜の薪を運ばせればよい」
ミオは少し考えた。
「それを採用します」
結局、王宮兵たちは裏山で迷い、ヴァルドに薪運びを命じられ、なぜか風呂の火加減を見守ることになった。
アルは玄関に座り、きれいに揃えた靴を見ていた。
「ここでは、本当に王子でなくてもいいのだな」
「宿帳にはアルと書きました」
「それだけで?」
「宿では、それで十分です」
アルは少しだけ泣きそうな顔をした。
その膝に、モップがどすんと乗った。
「くるる」
「う……重い」
モップは膝に乗ったまま、アルを見上げた。
玄関の箱が、かたりと鳴った。
『この王子は、今少し救われ――』
「箱様」
ミオは低い声を出した。
「いい話にまとめる係は募集していません」
箱は黙った。
その夜、ミオは貼り紙の下に一行書き足した。
> 一、王子様が働きたいと言った場合、皿洗い以外から始めること。
> 皿は身分を見ない。
アルはそれを見て、肩を落とした。
「私は、皿にも負けるのか」
「最初は誰でもそうです」
「ミオ様も?」
「私は勝ちました」
「強い」
レオが笑う。
「やかん屋では、肩書きより皿を割らない方が偉いんだよ」
「レオさんは今朝、湯呑みを欠けさせました」
「言わないで」
アルが初めて声を出して笑った。
ミオは宿帳を閉じる。
今日の宿泊者。勇者。魔女見習い。子グリフォン。黒い箱。竜。王子。
宿として、かなりおかしい。
けれど玄関の靴だけは、今までで一番きれいに揃っていた。




