第9話 勇者様が来ない日は、玄関の音が大きい
祖母の貼り紙には、こうある。
> 一、二階の角部屋は、勇者レオ様用。
> よく来る。
> だいたい泥だらけ。
> だいたい何か連れている。
ミオはその貼り紙を見て、筆ペンを持ったまま止まった。
「……よく来る、の基準がおかしいんですよね」
玄関の黒い箱が、手ぬぐいの下でかたりと鳴る。
『来ぬ日は、来ぬ音がする』
「急に詩的にならないでください」
その日、レオは来なかった。
朝、ミオは二階角部屋の窓を開けた。布団を干し、花瓶の水を替え、畳の上に落ちていた小さな羽を拾う。
たぶんモップの羽だ。たぶん。
「別に、レオさんのために整えているわけではありません」
誰も聞いていない独り言が少し大きかった。
ミオは窓を閉め、下階に降りた。
廊下では、アルが靴を揃えている。王子様だった人は、昨日から靴そろえ係として妙に優秀だった。
「ミオ様、レオ殿の靴置き場は空けておいた方がいいか」
「様はいりません。あと、空けなくていいです」
「しかし、あの靴は他の靴と混ぜると危険だ」
「においの話なら正しいですが、今日は来るとは限りません」
アルは真面目な顔で、玄関の端を一足分だけ空けた。
「念のためだ」
「念のためが多い宿ですね」
台所ではリリカが卵を割っていた。が、粉々になっている。
「ミオ様、今日の卵焼きは少し歯ごたえがありますわ」
「殻を入れないでください」
「薬なら、殻にも効能が」
「料理です」
縁側ではモップが丸くなっている。離れではヴァルドがくしゃみを我慢している。時々、我慢しきれず、ぼん、と小さな音がする。
レオがいないだけで、騒動は十分だった。
それなのに、ミオは何度も裏口の方を見てしまう。
こん。
音がした。
ミオは台所奥へ走った。
こん。
二回目。
ミオは取っ手に手をかける。
……そこで止まった。
「三回目までは開けない」
祖母の声が、頭の中で聞こえた気がした。
こん。
三回目。
ミオが戸を開けると、そこにいたのは骸骨兵のノッポだった。
細長い骨の体に、以前より少しきれいな布を巻いている。足元には、泥がついていた。
「お邪魔いたします」
「まず靴を」
「骨ですが」
「足元が泥なら同じです」
ノッポは素直に、なぜか履いていた長靴を脱いだ。
「本日は、勇者殿はいらっしゃいますか」
「いません」
「そうですか」
ノッポは、かくんと肩を落とした。
「魔王様より、伝言を預かっております」
「魔王様から勇者様へ?」
「はい。『王都方面の空が変だ。面倒なら宿に逃げろ』とのことです」
「魔王様、意外と親切ですね」
「勇者殿が倒れると、魔王様がつまらないそうです」
「理由は親切ではありませんでした」
そこへアルが玄関から顔を出した。
「王都方面?」
ノッポはアルを見た。
「王子殿下」
「今はアルだ」
「では、アル殿。王都の兵も勇者殿を探しております」
アルの顔が曇る。
「父上が?」
「陛下ではなく、神殿です」
リリカが台所から身を乗り出した。
「神殿ですの? 面倒な匂いがしますわね」
「匂いで分かるんですか」
「神殿の薬棚はだいたい乾燥しすぎていますもの」
「判断基準が薬棚」
ミオは宿帳を閉じた。
「レオさんは今日は来ていません。来たら伝えます」
ノッポは頭を下げた。
「では、味噌汁を一杯いただいても?」
「伝言だけでは帰らないんですね」
「骨身に染みるので」
「骨しかないのに」
結局、ノッポは味噌汁を飲んで帰った。正確には、飲むふりをして湯気を浴びていた。
夕方になっても、レオは来なかった。
アルは玄関の空き場所をさらに少し広げた。
「泥が多い場合に備えた」
「来ないと言いましたよね」
「備えは王族の基本だ」
「王子を辞めたのでは」
「備えだけ残った」
リリカは薬瓶を並べた。
「帰還誘導薬を作りましょうか。煙を吸うと、帰りたい場所を思い出す薬ですわ」
「副作用は?」
「近くの鶏も帰巣本能に目覚めます」
「この宿に鶏はいません」
「では安全ですわ」
「外の山鳥が全部来たらどうするんですか」
ヴァルドが離れから声をかけた。
「竜の鼻で追えるぞ」
「火は吐かないでください」
「吐かぬ。少し煙が出るだけだ」
「その少しを信用しない宿です」
みんなが、それぞれ何かしようとしていた。
それが少しおかしくて、少し困った。
ミオは二階角部屋へ上がった。
布団はふかふかのままだった。窓の外は暗くなり、山の向こうに、薄く青い光が揺れている。
レオの古い浴衣は畳の上に畳んである。短い丈の、昔のままの浴衣。
ミオはそれを見て、ため息をついた。
「……別に、心配しているわけでは」
背後で、かたり、と音がした。
黒い箱が階段の下から言う。
『心配とは、来ぬ者のために布団を直すことをいう』
「誰が二階まで箱様を運んだんですか」
下からアルの声がした。
「発言が役に立ちそうだったので」
「役に立っていません。裏口に戻してください」
『我は真実を告げ――』
「戻してください」
その時だった。
裏口が、四回鳴った。
こん。こん。こん。こん。
ミオは階段を駆け下りた。
四回鳴った場合は、塩と雑巾。
台所から塩をつかみ、雑巾を持つ。リリカは薬瓶を抱え、アルは靴べらを構えた。
「なぜ靴べらですか」
「靴そろえ係として」
「戦わないでください」
戸を開けると、風が吹き込んだ。
そこに人はいなかった。
ただ、敷居の上に、泥だらけの白いマントが落ちていた。
レオのものだった。
ミオはそれを拾った。布は濡れていて、端が少し焦げている。
リリカが息をのむ。
「転移の焦げ跡ですわ」
アルの顔が青くなる。
「強制的に戻されたのか?」
ヴァルドが離れからこちらを見た。
「いや。これは、戻れなかった跡だ」
ミオはマントを握った。
玄関の箱が、低く鳴る。
『帰れぬ客を、追い出してはならぬ』
「……箱様」
『迎えが必要な客もいる』
ミオは祖母の貼り紙を見た。
> 一、どうしても迎えに行きたい客がいる時は、やかんに湯を沸かしてから行くこと。
> 帰ってきた時、温かいお茶がないと寂しいから。
ミオは台所へ向かった。
「リリカさん、お茶を。アルさん、裏口の靴を空けておいてください。ヴァルドさん、火は弱めでお願いします」
「行くのか」
レオのマントを抱えたまま、ミオは答えた。
「お客様の忘れ物を、取りに行くだけです」
黒い箱が、かたりと鳴った。
『それを心配と言う』
「納屋に置きますよ」
箱は黙った。
やかんが、しゅんしゅんと鳴り始めた。




