第7話 竜のお客様、二階はご遠慮ください
祖母の貼り紙には、こうある。
> 一、竜のお客様が人の姿で来ても、二階には通さないこと。
> 本人が軽いと言っても、信じないこと。
> 前に床が抜けた。
ミオはその最後の一文を見て、黙った。
「……抜けたんですね」
玄関の黒い箱が、手ぬぐいの下でかたりと鳴る。
『床にも限界はある』
「あなたに言われると、なぜか床がかわいそうになります」
その日の《やかん屋》は、昼過ぎまで平和だった。
レオは一階の客間で寝ている。昨日の傷は浅かったが、ミオが「今日は外出禁止です」と言ったので、珍しく大人しくしていた。
リリカは台所で卵焼きの復習中。モップは縁側で尻尾を振り、廊下を少しずつきれいにしている。
平和だった。
少なくとも、裏口が三回鳴るまでは。
こん。こん。こん。
ミオは雑巾を置き、台所の奥へ向かった。
戸を開けると、背の高い男が立っていた。
銀色の髪を後ろで結び、黒い外套を羽織っている。顔立ちは整っていて、目は金色。手には小さな革の鞄。
見た目だけなら、上品な旅人だった。
ただし、背後の雨雲が妙に低い。そして、男の肩のあたりで、かすかに煙のようなものが立っている。
「一泊、頼めるか」
声は低く、丁寧だった。
ミオは一秒考えた。
「宿泊ですね。まず靴を脱いでください」
「靴?」
「はい」
「我は竜だが」
「竜のお客様でも玄関では靴を脱いでください」
男は少し驚いた顔をしてから、愉快そうに笑った。
「なるほど。千代の宿らしい」
ミオの手が止まる。
「祖母をご存じなんですか」
「ずいぶん昔に世話になった。湯が熱すぎると文句を言ったら、逆に説教された」
「なるほど」
男は靴を脱ぎ、玄関に上がろうとした。
その瞬間、床板がぎしりと鳴った。
ミオは貼り紙を思い出した。
「失礼ですが、お客様」
「何だ」
「体重は」
「人の姿なら軽い」
「貼り紙に、信じるなとあります」
「千代め」
竜の男は苦笑した。
そこへ、寝起きのレオが客間から顔を出した。
「ミオ、今の声……あ」
「レオか」
「ヴァルド。久しぶり」
ミオは二人を見比べた。
「お知り合いですか」
「昔、背中に乗せてもらった」
レオが言うと、竜の男――ヴァルドは鼻で笑った。
「乗せたのではない。勝手にしがみついたのだ。山三つ越えるまで離れなかった」
「楽しかったよね」
「こちらは尾を噛まれた」
「魔物にだよ」
「お前が連れてきた魔物にな」
ミオはレオを見た。
「またですか」
「昔の話だよ」
「昔からですか」
レオは目をそらした。
ヴァルドは玄関で腕を組む。
「二階の角部屋を頼む。昔もそこだった」
「二階はご遠慮ください」
「人の姿だ」
「貼り紙にあります」
「ならば一階で構わん」
「ありがとうございます」
「ただし、敷布団は大きめで頼む。寝返りで少し戻る」
ミオは動きを止めた。
「戻る?」
「竜に」
「寝ている間に?」
「少しだけだ」
「少しの基準が違いそうなので、離れです」
リリカが台所から飛び出してきた。
「竜のお客様ですの!? 鱗を一枚、薬の材料に――」
「だめです」
ミオが即答する。
「抜け落ちたものだけなら?」
「お客様の体を素材として見ないでください」
ヴァルドは面白そうにリリカを見た。
「若い魔女か。昔、千代にも似たようなことを言われた」
「祖母も鱗を?」
「いや、髪を切るなら外でやれ、と」
ミオは少しだけ安心した。祖母は祖母だった。
その時、モップが縁側から走ってきた。
くるる!
子グリフォンはヴァルドの足元で止まり、目を輝かせた。竜の匂いがするらしい。
ヴァルドは片眉を上げる。
「子グリフォンか」
「宿泊客です」
ミオが先に言った。
「働いて宿代をまけている宿泊客です」
「働く?」
モップは得意げに尻尾を振った。廊下のほこりが、すっと端へ寄る。
「なるほど。掃くのか」
ヴァルドは真面目にうなずいた。
「では我も何か働こう」
「お気持ちだけで結構です」
「火を吐ける」
「吐かないでください」
「風呂を沸かせる」
ミオは少し迷った。
リリカが小声で言う。
「便利ですわね」
「間に合ってます」
結局、ヴァルドは離れの前に座り、風呂釜の火加減を見張ることになった。
祖母の張り紙にも注意書きがあった。
> 一、火を吐くお客様は離れへ。
> くしゃみで炎が強くなるため。
ミオはそばに水桶を三つ置いた。
夕方。
レオは縁側に座り、ヴァルドが火を見ているのを眺めていた。
「昔と変わらないね、ヴァルド」
「お前もな」
「そうかな」
「泥だらけなのも、無茶をする癖も、そのままだ」
ミオは廊下を拭く手を止めた。
ヴァルドは金色の目でレオを見る。
「ただ、守るものは増えたようだ」
レオは笑った。
「そう見える?」
「ああ。千代の匂いがする宿に、お前は昔から弱い」
ミオは顔を上げる。
「祖母と、レオさんはそんなに昔から?」
レオが答える前に、玄関の箱が鳴った。
『血の――』
「箱様」
ミオは振り返った。
「今日は離れの竜のお客様の近くに置きますか」
箱は黙った。
ヴァルドが低く笑う。
「騒がしい宿だ」
「申し訳ありません」
「いや、良い宿だ。昔よりさらに騒がしい」
「それは褒めていますか」
「もちろんだ」
その夜、やかん屋の貼り紙に一行増えた。
> 一、竜のお客様は一階、または離れ。
> 火を吐けると言われても、台所には入れないこと。
ミオが筆ペンをしまうと、レオが横からのぞき込んだ。
「風呂、早く沸いたね」
「便利でした」
「使ったんだ」
「火加減が上手だったので」
離れの方から、ヴァルドのくしゃみが聞こえた。
ぼん、と小さな音がして、窓の外が一瞬明るくなる。
ミオは無言で水桶を持った。
レオが笑いながら後を追う。
「ミオ、俺も手伝う」
「怪我人は座っていてください」
「もう大丈夫」
「勇者様」
「はい」
「次に竜のお客様を連れてくる時は、先に予約してください」
「拾ってないよ」
「知り合いでも同じです」
玄関の箱が低くつぶやいた。
『この宿では、竜も予約制か』
ミオは水桶を抱えたまま答える。
「やかん屋のきまりです」
外では、ヴァルドが申し訳なさそうに小さくなっていた。
ただし、人の姿で小さくなっているだけで、床板はまだ少し鳴っていた。




