第5話 魔女の娘、卵焼きに敗北する
祖母の貼り紙には、こうある。
> 一、魔女のお客様が薬を売り始めた場合、まず成分を聞くこと。
> 答えない場合は、台所には入れないこと。
> 一、瓶が勝手に笑った場合は、絶対に買わないこと。
> 前に廊下が三日ほど笑い続けた。
美桜はその四行を読み、帳場の奥に置かれた古い木箱を見た。
中には、祖母が昔集めたらしい小瓶が並んでいる。
「……買ったんですね、おばあ様」
今朝の《やかん屋》は、珍しくにぎやかだった。
納屋には子グリフォンのモップ。玄関には喋る黒い箱。二階の角部屋には、今日もレオの荷物。
ただし、本人はいない。
「勇者様、朝ごはんだけ食べて出ていきましたね」
美桜が廊下を掃きながら言うと、玄関の箱が手ぬぐいの下から答えた。
『あの男は逃げ足だけは速い』
「あなたは動かないでください」
『我も移動はできる』
「しなくていいです」
その時、裏口が鳴った。
こん。こん。こん。
三回目は客。
美桜は雑巾を置き、台所の奥へ向かった。
戸を開けると、黒いとんがり帽子の少女が立っていた。
年は美桜より少し下くらい。紫がかった髪を三つ編みにし、大きすぎる黒いローブを着ている。肩からは革の鞄を下げ、そこから色とりどりの小瓶がぎっしり覗いていた。
足元には、なぜか小さな鍋が浮いている。
「ごきげんよう。こちら、宿屋で間違いありませんわね?」
「はい。宿泊ですか、休憩ですか」
「商談ですわ」
美桜は戸を半分閉めた。
「商談はお断りします」
「早いですわ!」
「貼り紙にありますので」
少女は胸を張り、鞄から赤い小瓶を取り出した。
「わたくしは魔女見習いリリカ。こちらは一滴で恋が燃え上がる薬!」
「成分は?」
「企業秘密ですわ」
美桜は戸をさらに閉める。
「お帰りください」
「待ってくださいまし! あなたがミオ様でしょう?」
美桜の手が止まった。
「どうして私の名前を」
「勇者レオがよく話していましたもの。世界で一番、靴に厳しい宿屋の娘だと」
「……あとで怒っておきましょう」
その時、納屋からモップが飛んできた。美桜の足元に着地し、リリカの鞄をくんくん嗅ぐ。
「あら、子グリフォン! 良い素材ですわ」
美桜はモップを抱き上げた。
「素材ではありません。宿泊客です」
「宿泊客?」
「働いて宿代をまけている宿泊客です」
「この宿、どういう宿ですの?」
「私も毎日考えています」
リリカは目を輝かせて、裏口から中をのぞき込んだ。
「では、一泊お願いしますわ。ついでに薬も少し」
「ついでは要りません」
「では、宿泊客として自然に」
「もっと要りません」
美桜はため息をつき、足元を見た。
「まず靴を脱いでください。あと、浮いている鍋は箱の横です」
「この子は相棒ですの!」
「相棒でも泥がついています」
鍋は不満そうに、かたん、と鳴った。
その声に反応して、裏口に置いてある箱が鳴る。
『同胞よ』
「仲間を増やさないでください」
リリカは手ぬぐいをかぶった箱を見た。
「封印箱ですの? 珍しいですわ」
『我を開けよ。望みを――』
「開けないでください」
「開けませんわ。母に、喋る箱の七割は面倒だと教わりましたもの」
『三割に入るかもしれぬ』
「自分で言う箱は七割ですわね」
箱が黙った。
美桜は少しだけリリカを見直した。
宿帳に名前を書かせると、リリカは台所をのぞいた。
「いい匂いがしますわ」
「朝食の残りです」
「それは薬草料理?」
「卵焼きです」
「タマゴヤキ」
リリカは初めて聞く呪文のように繰り返した。
美桜は少し迷ったが、小皿に卵焼きを一切れ乗せた。
「売り物ではありません。味見だけです」
リリカは小さなフォークで卵焼きを刺し、口に入れた。
次の瞬間、固まった。
紫の目が見開かれる。口元が震える。鞄の中の小瓶まで、かたかた揺れた。
「……何ですの、これは」
「卵焼きです」
「甘い。柔らかい。温かい。なのに、攻撃してこない」
「料理は普通、攻撃してきません」
「嘘ですわ。母の煮込みは、たまに噛みます」
「それは煮込みではありません」
リリカは小皿を両手で持ち、真剣な顔で言った。
「ミオ様」
「様はいりません」
「弟子にしてくださいまし」
「嫌です」
「卵焼きの弟子に!」
「もっと嫌です」
リリカは膝をつきそうになった。美桜は慌てて小皿を取り上げる。
「台所で跪かないでください。危ないので」
「では立ったまま弟子入りを」
「しません」
「せめて作り方を!」
「宿泊客に台所は貸しません」
その時、裏口がまた開いた。
「ただいまー。あ、魔女」
レオだった。
昼前に出ていったはずなのに、もう戻っている。しかも手には、見たことのない巨大なきのこを持っていた。
美桜は即座に言った。
「置いてください」
「まだ何も言ってない」
「置いてください」
「拾ってないよ」
「置いてください」
「生えてた」
「採ったんですね」
リリカがレオを見て、ぱっと顔を明るくした。
「レオ様。また変なものを拾ってきましたの?」
「リリカ。久しぶり」
「久しぶり、ではありませんわ。母がまだ怒っています。前にあなたが持ち込んだ眠り草のせいで、うちの鍋が三日寝ましたのよ」
「鍋って寝るんだ」
「うちの鍋は繊細ですの」
美桜はレオの持つきのこをにらんだ。
「知り合いなんですか」
「何回か助けてもらった」
「実験台にしただけですわ」
「助けてもらったってことで」
「都合よく言い換えないでくださいまし」
美桜はレオの持つきのこをにらんだ。
「それは食べられますか」
「たぶん」
「たぶんで持ってこないでください」
「リリカなら分かる?」
リリカはきのこを見て、顔色を変えた。
「それ、笑い茸ですわ。食べると一日中、笑い続けます」
レオはそっときのこを玄関に置いた。
「危なかった」
「危なかった、ではありません」
美桜はきのこを新聞紙で包み、箱の隣へ置いた。
『我の横に茸を置くな』
「静かにしてください」
リリカは卵焼きの皿をまだ見つめている。
「ミオ様。わたくし、薬を売るのをやめますわ」
「急ですね」
「まず卵焼きを学びます」
「宿泊目的が変わっています」
「母に叱られても構いません。わたくし、噛まない料理を作れる魔女になります」
「普通の料理です」
「普通が一番難しいのですわ!」
レオが笑った。
「ミオ、弟子できたね」
「できていません」
モップが美桜の足元で、くるると鳴いた。まるで賛成しているようだった。
美桜はため息をつき、貼り紙の下に一行書き足した。
> 一、魔女見習いが台所に入りたがった場合、まず手を洗わせること。
リリカがぱっと顔を輝かせる。
「では!」
「手洗いまでです」
「第一歩ですわね!」
「勝手に進まないでください」
その日の宿帳には、また名前が増えた。
リリカ。浮く鍋。笑い茸。
美桜は筆ペンを置き、祖母に電話で報告する内容を整理した。
魔女が来ました。卵焼きに負けました。勇者様が笑うきのこを持ち帰りました。
どれから話しても、たぶん怒られる。
台所では、リリカが手を洗いながら真剣に言っていた。
「美桜様、卵は右手で割りますの? 左手で?」
「まず力加減です」
玄関で箱が低くつぶやく。
『我も卵焼きを所望する』
「口ができたら考えます」
箱は、今日も黙った。




