第3話 魔王軍でも先払いならお客様です
翌朝、美桜は宿帳を開いて、少しだけため息をついた。
宿泊者欄には、こうある。
レオ・グランツ。箱。うるさい箱。
「……二重線、引いておこう」
『我の名を汚すな』
裏口から声がした。
黒い箱は、昨夜から傘立ての横の棚の上にいる。手ぬぐいをかぶせられ、重石を乗せられたままなのに、妙に元気だった。
「おはようございます、うるさい箱様」
『箱でよい』
「では、静かな箱様を目指してください」
箱は黙った。少し傷ついたのかもしれない。
二階からは、まだレオが起きてくる気配はない。勇者らしく早朝に旅立つのかと思ったら、普通に寝坊している。
美桜は朝食の準備をしながら、祖母の貼り紙を見た。
> 一、朝食は七時。
> 勇者でも、魔王でも、王子でも、寝坊したら温め直しはしない。
柱時計は七時五分を指している。
「冷めますよ、勇者様」
二階へ向かって言うと、返事の代わりに床板がぎしりと鳴った。その直後、裏口が鳴った。
こん。
美桜は包丁を止める。
こん。
二回目。
こん。
三回目。
美桜は貼り紙を見る。
> 三回目は客。
今日は朝からか。
美桜は塩と雑巾を手に取った。昨夜より迷いは少ない。慣れたわけではないが、慣れたくはない。
裏口を開けると、そこに骸骨が立っていた。
背が高い。鎧を着ている。兜の隙間から、空っぽの眼窩がこちらを見ている。腰には曲がった剣。肩には黒いマント。胸当てには、禍々しい紋章。
美桜はそっと戸を閉めた。
こん。
向こうから、控えめにまた叩かれた。
「すみません」
骨の声は、思ったより礼儀正しかった。
「まだ、開いておりますでしょうか」
美桜はもう一度、少しだけ戸を開けた。
「宿泊ですか、休憩ですか」
骸骨は固まった。
「……偵察」
「偵察?」
「いえ…宿泊で」
「先払いになります」
「魔王軍ですが」
「魔王軍でもです」
美桜は帳場の紙を指さした。
> 一、魔王軍でも、先払いならお客様。
骸骨はしばらく紙を見つめ、それから深く頭を下げた。
「規則であれば、従います」
「まず靴を脱いでください」
「失礼しました」
骸骨は真面目に膝を折り、ぎこちなく鉄靴を脱ぎ始めた。指の骨が一本、ころんと落ちる。
「落ちましたよ」
「小指です」
「拾ってください」
「はい」
美桜が雑巾を構えたまま見守っていると、二階からレオが降りてきた。
寝癖。浴衣。片手に歯ブラシ。
「ミオ、おはよ……」
玄関の骸骨と目が合う。
レオは歯ブラシをくわえたまま固まった。
骸骨も固まった。
黒い箱が、うれしそうに鳴った。
『勇者と魔王軍、廊下で遭遇』
「実況しないでください」
美桜は箱を睨んだ。
レオは歯ブラシを外し、骸骨を見た。
「ノッポ?」
「レオ殿」
「何してるの」
「偵察です」
「宿帳、まだですよ」
美桜が間に入る。
骸骨――ノッポは、慌てて背筋を伸ばした。
「あ、すみません」
「では先に宿帳を書いてください。もし、戦うなら裏山ですが、朝食前の戦闘は禁止です」
「禁止なんだ」
レオが妙に感心する。
「当たり前です。ご飯が冷めます」
「理由そこ?」
「そこです」
ノッポは帳場まで案内されると、筆ペンを持って困ったように首をかしげた。
「名は、どう書けば」
「普段呼ばれている名前で結構です」
「ノッポ、と」
美桜は宿帳をのぞき込んだ。
レオ・グランツ。箱。ノッポ。
宿として、だいぶおかしくなってきた。
レオが横から言う。
「魔王軍、字がきれいだね」
「ありがとうございます。報告書を書く任務が多いので」
「偵察って本当に偵察なんだ」
「はい。勇者殿がどこで何を食べ、どのように休んでいるかを」
「食べるんですか」
美桜が聞くと、ノッポは少し困った。
「口はありますが、胃がありません」
「では朝食は?」
「香りだけでも」
美桜は台所へ行き、味噌汁をよそった。具は豆腐とねぎ。祖母の味にはまだ届かないが、湯気だけは立派だった。
ノッポの前に置くと、彼は両手で椀を持った。
「……温かい」
「熱いので気をつけてください」
「骨ですが」
「椀は熱いです」
「たしかに」
ノッポは椀に顔を近づけた。食べられない。飲めない。けれど、湯気を浴びるようにじっとしている。
その姿があまりに真剣で、レオが笑いかけて、途中でやめた。
「うまい?」
ノッポはゆっくりうなずいた。
「骨身に染みます」
「染みるところ、ありますか」
美桜がつい言うと、ノッポは少し考えた。
「気持ちの骨に」
「それならよかったです」
黒い箱が玄関でかたりと鳴る。
『我にも味噌汁を』
「あなたは預かり品です」
『差別である』
「宿代を払ってから言ってください」
ノッポが驚いたように箱を見た。
「呪具にも宿代が?」
「当宿では必要です」
「勉強になります」
魔王軍に宿の何を勉強されているのか。
美桜は考えるのをやめた。
朝食の間、レオとノッポは戦わなかった。
レオは焼き鮭をほぐし、ノッポは味噌汁の湯気を浴び、箱はときどき「我を開けろ」と言いかけて美桜に睨まれた。
不思議と、静かな朝だった。
食後、ノッポは玄関で鉄靴を履き直した。
「お世話になりました」
「宿泊ではなく偵察でしたよね」
「はい。ですが、よい宿でした」
「それはどうも」
「魔王様にも報告いたします」
「宣伝は控えめにお願いします」
レオが玄関の柱にもたれながら言う。
「魔王によろしく」
「承知しました」
ノッポは戸に手をかけ、ふと止まった。
「ミオ殿」
「はい」
「勇者殿は、魔王様より王国を怖がっているように見えます」
レオの顔から、笑みが消えた。
ほんの一瞬だった。でも美桜は見てしまった。
ノッポは深く頭を下げる。
「偵察兵の独り言です。忘れてください」
裏口が閉まり、雨上がりの匂いだけが残った。
美桜はしばらく、閉まった戸を見ていた。
レオはいつもの顔に戻って、伸びをする。
「さて。俺もそろそろ行こうかな」
「朝食のおかわりは?」
「え?」
「焼き鮭が残っています」
レオは瞬きした。
それから、困ったように笑った。
「……もらう」
美桜は台所へ向かった。
黒い箱が、玄関で小さく鳴る。
『この娘は、今――』
「うるさい箱様」
美桜は振り返らずに言った。
「納屋に行きますか」
箱は黙った。




