第2話 喋る箱は客室に置かないでください
黒い箱は、裏口に置かれた。
正確には、裏口の隅にある傘立ての横の棚の上。その上から古い手ぬぐいをかぶせられ、さらに祖母が梅干しを漬ける時に使っていた重石まで乗せられている。
『扱いが雑である』
手ぬぐいの下から、低い声がした。
美桜は雑巾を絞りながら答える。
「宿代を払っていない箱に、これ以上の待遇はありません」
『我は古の呪具ぞ』
「古くても新しくても、廊下で大声を出すものは裏口です」
『我を開ければ、望みを一つ――』
「開けません」
『聞くだけでも――』
「いえ」
『少しくらい――』
「就寝時間を過ぎています」
箱は、かたり、と不満そうに鳴った。
二階では、レオが風呂場から戻ってきた音がする。階段がぎしぎし鳴り、途中で一度止まった。
「ミオー」
「何ですか」
「二階の角部屋、まだ俺の荷物はとってある?」
「あります」
「よかった」
「祖母が、捨てようとしたら箱が泣いたって言ってました」
「箱?」
「あなたの古い荷物箱です。今、裏口にいる箱とは別です」
「あー。そういえば…俺、箱に好かれるのかな」
「まず人に迷惑をかけない方向で好かれてください」
レオが階段の途中で笑う声がした。
美桜は裏口の泥を掃き終え、立ち上がった。雨はまだ降っている。表の玄関は静かだ。裏口も、静かだ。
祖母のいない初めての宿番。最初の客は、泥だらけの勇者と喋る箱。
思っていたより、祖母の仕事はかなり大変だった。
美桜は帳場に戻り、宿帳を確認する。
宿泊者。レオ・グランツ。二階角部屋。箱。裏口。
『娘よ』
裏口から声がする。
「はい」
『我の名を、箱と書いたな』
「はい」
『せめて黒箱にせぬか』
「宿代を払ったら考えます」
『我に金銭の概念はない』
「では箱です」
その時、二階から戸の開く音がした。
「ミオ、この布団ふかふかだ」
「祖母が干していましたから」
「千代さん、元気?」
「今は腰を痛めて入院中です」
「そっか。千代ちゃん、昔から無理するからなあ」
ミオは宿帳から顔を上げた。
「……ちゃん?」
「…昔からの呼び方で」
レオは一拍遅れて、笑った。
「明日、お見舞いに行く予定です。伝言があるなら聞きます」
「じゃあ、また怒られに行くって言っておいて」
「自覚があるなら、大人しくしてください」
「それは難しい」
「でしょうね」
いつもの調子で返したつもりだった。
けれどレオはすぐには笑わなかった。
美桜が階段の方を見ると、レオは手すりに片手を置いて立っていた。髪は乾いていない。祖母が好きな花の香りのシャンプーが、階段の上からかすかに漂っている。
白いマントは脱いで、古い浴衣を着ていた。丈が少し短い。昔のままの浴衣だったからだ。
「……大きくなりましたね」
ミオはつい言ってしまった。
レオは目を丸くしたあと、にっと笑った。
「ミオもね」
「私は浴衣の丈の話をしています」
「俺は、ミオが台所の椅子に登って味見してた頃の話をしてる」
ミオは宿帳を閉じる手を止めた。
「……覚えすぎでは?」
「よく転びそうになってたから」
「忘れてください」
「無理かな。千代さんに、見ててやってって言われてたし」
その言い方があまりに自然で、ミオは返事に困った。
そこへ、玄関の箱が言った。
『二階角部屋の押し入れには、古い木剣が三本ある』
レオが足を止める。
『そのうち一本には、子どもの字で"れおにかつ"と書かれている』
ミオの足も止まった。
「……箱様」
『真実であろう』
「なぜ知っているんですか」
『我は閉じられしものの声を聞く』
レオがこちらを見た。
「ミオ、俺に勝つつもりだったの?」
「子どもの頃の話です」
「勝てた?」
「勝てませんでした」
「じゃあ今度やる?」
「やりません」
「なんで?」
「宿の中で戦わないこと、と貼り紙にあります」
『この娘は、少しやりたいと思っている』
「納屋ですね」
ミオは裏口へ向かった。
レオが慌てて箱の前にしゃがむ。
「待って待って。箱、今のはまずい」
『なぜだ。真実である』
「真実でも、出す順番があるだろ」
『血の縁も、出す順番があるのか』
レオの手が、タオルの上で止まった。
『……今のは、朝食後どころか、茶菓子の後にするべき真実であった』
レオは無言で箱を押さえた。
ミオはしばらく二人を見たあと、重石をもう一つ持ってきた。
「……やっぱり、納屋にしますか」
「しない。俺が見張る」
「レオさんが一番信用できないんですが」
「そこは信じてほしいなあ」
「朝食後に考えます」
ミオは台所へ戻った。
鍋の中の味噌汁を温め直す。ご飯は茶碗に二つ。漬物も出す。祖母なら魚も焼いたかもしれないが、今日はそこまで手が回らない。
それでも、湯気が立つだけで台所は少し落ち着いた。
レオは玄関に座り込んで、箱の手ぬぐいを直している。
「部屋へ行かないんですか」
「箱が寂しがるかなって」
「箱は裏口です」
「じゃあ俺も裏口?」
「お客様を裏口に寝かせる宿ではありません」
『我は客ではないのか』
「あなたは預かり品です」
『扱いが落ちた』
レオがまた笑った。
ミオはお膳を運びながら言う。
「夕飯です。食べたら二階へ」
「ミオは?」
「帳場で食べます」
「一緒に食べないの?」
その言い方が、昔と同じだった。
子どもの頃、レオは祖母に叱られながらも、いつも台所をのぞいていた。ミオが隅でおにぎりを食べていると、当たり前みたいに隣へ来た。
覚えている。
でも、覚えていると言うのは癪だった。
「一緒に食べる?」
「仕方ないですね」
レオは嬉しそうに笑った。
玄関の箱が、かたりと鳴る。
『この男は今――』
「うるさい箱」
ミオが言うと、箱はぴたりと黙った。
レオが笑い、ミオはお膳を置く。
雨の夜。祖母のいない《やかん屋》の帳場。
勇者は浴衣姿で味噌汁をすすり、喋る箱は裏口で重石を乗せられている。
ミオは箸を持ちながら、祖母への明日のお見舞いで何から話すべきか考えた。
勇者が来ました。箱も来ました。箱が人の秘密を喋ります。
報告の内容が煩雑になる。
レオが味噌汁を飲んで、ほっと息をついた。
「やっぱり、ここは落ち着く」
美桜は漬物を小皿に寄せる。
「落ち着くなら、次から変なものを拾って来ないでください」
「拾ってないよ。ついてきた」
「では、次についてこられたら、宿泊料を二倍にします」
玄関の箱が、低くつぶやいた。
『我は払わぬぞ』
「では納屋です」
箱は黙った。
レオは味噌汁を吹きそうになった。




