第1話 やかん屋のきまりは勇者様にも適用されます
帳場の黒電話の横に、祖母の字で書かれた紙が貼ってある。
古い和紙。筆ペンの太い文字。端には醤油の染み。真ん中あたりに、なぜか小さな焦げ跡。
ミオは前掛けの紐を結び直しながら、その紙を読んだ。
> 一、夜中に裏口が鳴っても、三回鳴るまでは開けないこと。
> 一回目は風。
> 二回目は迷子。
> 三回目は客。
「……三回目も開けない方がいい気がする」
祖母の千夜が52代目の女将という民宿《やかん屋》は、山道の行き止まりにある古い民宿だ。雨の日は杉の匂いが玄関まで染み込み、廊下は歩くたびに小さく鳴る。客室は六つ。大広間は一つ。風呂はまだ薪で沸かす。表の玄関の向こうには、街灯の少ない県道と、夜になると真っ黒になる杉林がある。
ただし、土間だった台所を改築して床張りになっているが、台所の奥にある一畳ほどの土間を残した裏口だけは、祖母いわく「たまに違うところにつながる」。
美桜は子どもの頃から、その言葉を半分だけ信じていた。
だって、この宿には変な客が来た。
真夏に髪や肩に1センチほどの雪を積もらせたままで入ってくる女。ポットを見て「小さな井戸だ」と感動する男。
それでも祖母は、いつも同じことを言った。
「靴を脱いでもらいなさい。お茶を出しなさい。話はそれから」
そんな祖母は今、腰を痛めて入院中。
つまり今日からしばらく、この変な宿を美桜が見ることになった。
紙の下の方には、さらに不穏な一文があった。
> 一、勇者レオは二階の角部屋。
> ただし、変なものを連れていたら納屋。
「勇者って、予約制なの……?」
雨の夜の宿は、客がいないと広すぎる。
厨房の冷蔵庫が低く唸り、柱時計だけが律儀に時を刻んでいる。廊下の奥は暗く、祖母がいつも座っていた帳場の座布団だけが、ぽつんと空いていた。
美桜はその座布団を見ないようにして、前掛けの端を握った。
柱時計が、夜十時を鳴らした。
その直後。
こん。
裏口から音がした。
ミオは顔を上げる。
こん。
二回目。
雨は降っている。でも風ではない。音が妙に行儀よく、戸の真ん中を叩いている。
こん。
三回目。
美桜は紙を見た。
三回目は客。
「……本当に来るんだ」
塩。雑巾。靴を拭くための古いタオル。
祖母の教えである。困った時は、だいたいこの三つのどれかが役に立つ。
ミオはそれらを持って、台所の奥へ向かった。
裏口の向こうから、明るい声がした。
「こんばんは。まだ泊まれる?」
聞き覚えがあった。
子どもの頃、何度も聞いた声。来るたびに祖母に叱られて、それでも笑っていた人。
美桜は戸を開けた。
戸の向こうには、いつもの裏口の先にあるコンクリートがなかった。
濡れた石畳。見たことのない青い花。雨の匂いに混じって、焚き火と鉄の匂いがする。
その真ん中に、金髪の青年が立っていた。
白いマント。腰の剣。金髪で青い目。顔だけなら、絵本の勇者だった。
ただし、全身泥だらけ。
髪には葉っぱ。頬には擦り傷。皮のブーツからは水が滴っている。左腕には黒い箱を抱えていた。
箱には赤い字で書いてある。
『絶対に開けるな』
美桜は戸を半分閉めて覗き込みながら言った。
「帰ってください」
「久しぶりなのに?」
「久しぶりだからです」
青年――レオは、昔と同じ顔で笑った。
「ミオ、大きくなったね」
「レオさんは、相変わらず汚れた格好ですね」
「再会の第一声、そこ?」
「宿なので」
「雨だったんだよ」
「ふーん」
「ほぼ泥…あ、ちょっと血もついてるか」
美桜は無言でタオルを差し出した。
レオが受け取ろうとする。美桜はタオルを少し引いた。
「靴が先です」
「はい」
レオは素直に靴を脱いだ。脱いだ瞬間、裏口の土間に泥水が広がった。
ミオは雑巾を握りしめる。
「勇者様」
「うん」
「汚れた足で上がらないでください」
「うん?」
「そのまま上がったら、今夜のご飯なしです」
レオの顔から笑みが消えた。
「それは……困るなぁ……」
勇者と呼ばれる青年は、濡れた靴下のまま、ミオが指した板の上にちょこんと立った。
昔と変わらない。庭に竜の卵を埋めた時も、風呂場に人魚を寝かせた時も、客室に喋る剣を忘れた時も、レオは祖母に同じ顔で怒られていた。そして、毎回こう言った。
拾ってない。ついてきた。
ミオは黒い箱を指さした。
「それは?」
「拾ってないけど…」
「けど?」
「ついてきたんだよ」
「本当に?」
「本当。浮いてた」
箱が、かたりと鳴った。
レオが腕の中を見る。
「ほら。動くだろ?」
『開けろ……』
箱がしゃべった。低く湿った声だった。古い排水口が夜中に独り言を言ったら、たぶんこんな声になる。
『我は古の――』
美桜は箱にタオルをかぶせた。
箱はもごもご言っている。
レオが目を丸くする。
「すごい」
「夜十時以降、大きな音を出すものは預かります」
「箱も?」
「箱もです」
『我は古の――』
「夕飯を食べたいですか」
箱が黙った。
レオが肩を震わせている。笑っている。
美桜は睨んだ。
「笑う元気があるなら、足を拭いてください」
「ミオ、千代さんに似てきたね」
祖母の名前を出されて、ミオは少しだけ黙った。
祖母なら、ここでレオの額を小突いただろう。それから文句を言いながら、温かい味噌汁を出しただろう。
美桜はまだ、そこまでうまくできない。だから代わりに、もう一枚タオルを出す。
「顔も拭いてください。葉っぱが刺さっています」
「え、どこ?」
「右です。違います、そっちは左です」
「こっち?」
「もういいです。動かないでください」
ミオは背伸びして、レオの髪から葉っぱを取った。
レオが一瞬だけ黙る。
「……ありがと」
ミオは黒い箱を見下ろした。
タオルの下で、かたり、かたりと鳴っている。
「これは裏口預かりです」
「部屋に置いちゃだめ?」
「だめです」
「寂しがるかも」
「寂しがる箱は、なおさらだめです」
『寂しくなど――』
「黙ってください」
箱は黙った。
レオはとうとう吹き出した。
ミオは帳場から宿帳を持ってきた。祖母が長年使っている、分厚い帳面だ。
「レオさんは二階の角部屋。これは貼り紙にありました」
「覚えててくれたのかと思った」
「貼り紙にありました」
「二回言わなくても」
「大事なので」
ミオは宿帳を開き、筆ペンを持つ。
「箱の方も、泊まるなら名前を書きます」
『我が名は、封じられし闇の――』
「長い名前は欄からはみ出ます」
『……箱でよい』
「では、箱様」
美桜は宿帳に「箱」と書いた。
「武器、呪具、危険物はお持ちですか」
『我自身が呪具である』
「裏口預かりですね」
『扱いが雑ではないか』
「宿代がまだなので」
レオが腹を抱えた。
ミオは宿帳を閉じ、顔を上げる。
雨はまだ降っている。裏口には泥水。板の上には濡れた勇者。タオルの下には喋る箱。
祖母のいない初日の夜。最初の客としては、だいぶひどい。
けれど、客は客だ。
美桜は筆ペンのキャップを閉めた。
「では、勇者様」
「はい」
「宿帳には書きました。次は足を拭いてください」
「はい」
「箱様」
『何だ』
「あなたは裏口です」
『なぜだ』
ミオは祖母の貼り紙を見た。
> 剣・杖・呪具・喋る箱は帳場で預かること。
筆ペンで、その下に一行書き足す。
> ただし、うるさい箱は裏口。
「やかん屋のきまりです」
箱が、かたりと鳴った。
レオが笑った。
ミオは雑巾を絞った。
祖母のいない、初めての宿番の夜。最初のお客様は、泥だらけの勇者と、宿帳に「箱」と書かれた喋る呪具だった。
美桜は、明日祖母に電話する内容を心の中で一つ増やした。
「箱の宿泊料って、いくらですか」




