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山奥の民宿ですが、異世界の勇者様が数日おきに泥だらけで泊まりに来ます  作者: そらのことのは


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2/10

第1話 やかん屋のきまりは勇者様にも適用されます

 帳場の黒電話の横に、祖母の字で書かれた紙が貼ってある。


 古い和紙。筆ペンの太い文字。端には醤油の染み。真ん中あたりに、なぜか小さな焦げ跡。


 ミオは前掛けの紐を結び直しながら、その紙を読んだ。


 > 一、夜中に裏口が鳴っても、三回鳴るまでは開けないこと。

 > 一回目は風。

 > 二回目は迷子。

 > 三回目は客。


「……三回目も開けない方がいい気がする」


 祖母の千夜が52代目の女将という民宿《やかん屋》は、山道の行き止まりにある古い民宿だ。雨の日は杉の匂いが玄関まで染み込み、廊下は歩くたびに小さく鳴る。客室は六つ。大広間は一つ。風呂はまだ薪で沸かす。表の玄関の向こうには、街灯の少ない県道と、夜になると真っ黒になる杉林がある。


 ただし、土間だった台所を改築して床張りになっているが、台所の奥にある一畳ほどの土間を残した裏口だけは、祖母いわく「たまに違うところにつながる」。


 美桜は子どもの頃から、その言葉を半分だけ信じていた。


 だって、この宿には変な客が来た。


 真夏に髪や肩に1センチほどの雪を積もらせたままで入ってくる女。ポットを見て「小さな井戸だ」と感動する男。


 それでも祖母は、いつも同じことを言った。


「靴を脱いでもらいなさい。お茶を出しなさい。話はそれから」


 そんな祖母は今、腰を痛めて入院中。


 つまり今日からしばらく、この変な宿を美桜が見ることになった。


 紙の下の方には、さらに不穏な一文があった。


 > 一、勇者レオは二階の角部屋。

 > ただし、変なものを連れていたら納屋。


「勇者って、予約制なの……?」


 雨の夜の宿は、客がいないと広すぎる。


 厨房の冷蔵庫が低く唸り、柱時計だけが律儀に時を刻んでいる。廊下の奥は暗く、祖母がいつも座っていた帳場の座布団だけが、ぽつんと空いていた。


 美桜はその座布団を見ないようにして、前掛けの端を握った。


 柱時計が、夜十時を鳴らした。


 その直後。


 こん。


 裏口から音がした。


 ミオは顔を上げる。


 こん。


 二回目。


 雨は降っている。でも風ではない。音が妙に行儀よく、戸の真ん中を叩いている。


 こん。


 三回目。


 美桜は紙を見た。


 三回目は客。


「……本当に来るんだ」


 塩。雑巾。靴を拭くための古いタオル。


 祖母の教えである。困った時は、だいたいこの三つのどれかが役に立つ。


 ミオはそれらを持って、台所の奥へ向かった。


 裏口の向こうから、明るい声がした。


「こんばんは。まだ泊まれる?」


 聞き覚えがあった。


 子どもの頃、何度も聞いた声。来るたびに祖母に叱られて、それでも笑っていた人。


 美桜は戸を開けた。


 戸の向こうには、いつもの裏口の先にあるコンクリートがなかった。


 濡れた石畳。見たことのない青い花。雨の匂いに混じって、焚き火と鉄の匂いがする。


 その真ん中に、金髪の青年が立っていた。


 白いマント。腰の剣。金髪で青い目。顔だけなら、絵本の勇者だった。


 ただし、全身泥だらけ。


 髪には葉っぱ。頬には擦り傷。皮のブーツからは水が滴っている。左腕には黒い箱を抱えていた。


 箱には赤い字で書いてある。


『絶対に開けるな』


 美桜は戸を半分閉めて覗き込みながら言った。


「帰ってください」


「久しぶりなのに?」


「久しぶりだからです」


 青年――レオは、昔と同じ顔で笑った。


「ミオ、大きくなったね」


「レオさんは、相変わらず汚れた格好ですね」


「再会の第一声、そこ?」


「宿なので」


「雨だったんだよ」


「ふーん」


「ほぼ泥…あ、ちょっと血もついてるか」


 美桜は無言でタオルを差し出した。


 レオが受け取ろうとする。美桜はタオルを少し引いた。


「靴が先です」


「はい」


 レオは素直に靴を脱いだ。脱いだ瞬間、裏口の土間に泥水が広がった。


 ミオは雑巾を握りしめる。


「勇者様」


「うん」


「汚れた足で上がらないでください」


「うん?」


「そのまま上がったら、今夜のご飯なしです」


 レオの顔から笑みが消えた。


「それは……困るなぁ……」


 勇者と呼ばれる青年は、濡れた靴下のまま、ミオが指した板の上にちょこんと立った。


 昔と変わらない。庭に竜の卵を埋めた時も、風呂場に人魚を寝かせた時も、客室に喋る剣を忘れた時も、レオは祖母に同じ顔で怒られていた。そして、毎回こう言った。


 拾ってない。ついてきた。


 ミオは黒い箱を指さした。


「それは?」


「拾ってないけど…」


「けど?」


「ついてきたんだよ」


「本当に?」


「本当。浮いてた」


 箱が、かたりと鳴った。


 レオが腕の中を見る。


「ほら。動くだろ?」


『開けろ……』


 箱がしゃべった。低く湿った声だった。古い排水口が夜中に独り言を言ったら、たぶんこんな声になる。


『我は古の――』


 美桜は箱にタオルをかぶせた。


 箱はもごもご言っている。


 レオが目を丸くする。


「すごい」


「夜十時以降、大きな音を出すものは預かります」


「箱も?」


「箱もです」


『我は古の――』


「夕飯を食べたいですか」


 箱が黙った。


 レオが肩を震わせている。笑っている。


 美桜は睨んだ。


「笑う元気があるなら、足を拭いてください」


「ミオ、千代さんに似てきたね」


 祖母の名前を出されて、ミオは少しだけ黙った。


 祖母なら、ここでレオの額を小突いただろう。それから文句を言いながら、温かい味噌汁を出しただろう。


 美桜はまだ、そこまでうまくできない。だから代わりに、もう一枚タオルを出す。


「顔も拭いてください。葉っぱが刺さっています」


「え、どこ?」


「右です。違います、そっちは左です」


「こっち?」


「もういいです。動かないでください」


 ミオは背伸びして、レオの髪から葉っぱを取った。


 レオが一瞬だけ黙る。


「……ありがと」


 ミオは黒い箱を見下ろした。


 タオルの下で、かたり、かたりと鳴っている。


「これは裏口預かりです」


「部屋に置いちゃだめ?」


「だめです」


「寂しがるかも」


「寂しがる箱は、なおさらだめです」


『寂しくなど――』


「黙ってください」


 箱は黙った。


 レオはとうとう吹き出した。


 ミオは帳場から宿帳を持ってきた。祖母が長年使っている、分厚い帳面だ。


「レオさんは二階の角部屋。これは貼り紙にありました」


「覚えててくれたのかと思った」


「貼り紙にありました」


「二回言わなくても」


「大事なので」


 ミオは宿帳を開き、筆ペンを持つ。


「箱の方も、泊まるなら名前を書きます」


『我が名は、封じられし闇の――』


「長い名前は欄からはみ出ます」


『……箱でよい』


「では、箱様」


 美桜は宿帳に「箱」と書いた。


「武器、呪具、危険物はお持ちですか」


『我自身が呪具である』


「裏口預かりですね」


『扱いが雑ではないか』


「宿代がまだなので」


 レオが腹を抱えた。


 ミオは宿帳を閉じ、顔を上げる。


 雨はまだ降っている。裏口には泥水。板の上には濡れた勇者。タオルの下には喋る箱。


 祖母のいない初日の夜。最初の客としては、だいぶひどい。


 けれど、客は客だ。


 美桜は筆ペンのキャップを閉めた。


「では、勇者様」


「はい」


「宿帳には書きました。次は足を拭いてください」


「はい」


「箱様」


『何だ』


「あなたは裏口です」


『なぜだ』


 ミオは祖母の貼り紙を見た。


 > 剣・杖・呪具・喋る箱は帳場で預かること。


 筆ペンで、その下に一行書き足す。


 > ただし、うるさい箱は裏口。


「やかん屋のきまりです」


 箱が、かたりと鳴った。


 レオが笑った。


 ミオは雑巾を絞った。


 祖母のいない、初めての宿番の夜。最初のお客様は、泥だらけの勇者と、宿帳に「箱」と書かれた喋る呪具だった。


 美桜は、明日祖母に電話する内容を心の中で一つ増やした。


「箱の宿泊料って、いくらですか」

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