第3話 東京という戦場
模試の点数が思ったより良かったことで、嶺の胸には、
小さくも危うい自信が芽生えていた。
夏休み。
嶺はコツコツと溜めていた小遣いを握りしめ、ある計画を実行に移す。
大学のオープンキャンパスだ。
「ついでに、琳香さんにでも会いに行くか」
嶺は、誰に言うでもなく独り言で弁解した。
それを聞いた妹の灯莉は深く、重いため息をつく。
「いきなり東京って大丈夫なんかい?」
「ああ、ネットでばっちり調べてある」
「兄ちゃんさ、『地を知らずして戦えば、敗る』って孫子も言ってるべ。
ネットの知識だけで突っ走るのは、落とし穴に自分から飛び込むようなもんだぞい」
「わかってるって。
市内の店で一番いい服も揃えたし、似たような店も覗いてきた。
東京なんて、怖るるに足らずだべ」
嶺は強がるように言い返した。
スマホの中には、東京攻略のための情報が山ほど詰まっている。
それらを身にまとえば、自分も“戦える側”に立てるはず。
嶺はそう信じて疑わなかった。
だが。
東京駅に降り立った瞬間、その確信は音を立てて崩れ去った。
改札を抜けた先に広がるのは、熱気と喧騒の渦。
すれ違う人々から漂う、洗練された香水の匂い。
高層ビルが、昼間の空を切り裂くようにそびえ立っている。
何より――人の歩く速度が、異常に速い。
(……なんだ、ここ。みんな早歩きどころか、小走りじゃないか)
この日のために新調した「一番いい服」が、急に安っぽく見えた。
まるで新兵が丸腰のまま、いきなり敵陣のど真ん中に放り込まれたような感覚だ。
追い打ちをかけるように、空からは冷たい雨が降り出した。
サプライズのつもりで琳香に連絡を入れたものの、現在地すら上手く説明できない。
結局、駅の出口で迷子のようになっていた嶺を、琳香が迎えに来ることになった。
「嶺くん! どうしたの、受験の追い込み中なのに?」
「い、いや……オープンキャンパス。
早く着きすぎたので、琳香さん、どうしてるかなと思って」
「ふーん、あいにくの雨で大変だね」
「受験の追い込み中」という正論が、鋭い刃となって嶺の胸に突き刺さった。
***
嶺は事前に調べておいたレストランへ、琳香を誘った。
「ここ、肉料理が美味しいって有名らしいんです。よかったら、いっしょに……」
「いいの? オープンキャンパス」
「あ、はい。予約は明日なんで。行きましょう」
また嘘を重ねてしまった。
しかし、メニューを開いた琳香の表情は、困ったように曇る。
「ごめんね。私、ヴィーガンなんだ」
「……びーがん? なんだべ、それ」
思わず素の声が出てしまう。
周囲の席から、クスクスと場違いな笑い声が漏れた。
(……やめろ。こっちを見るな)
琳香は顔を赤らめながらも、店員に丁寧に頭を下げた。
「すみません、野菜中心の料理に変えていただけますか?」
その後の予定も、雨のせいで全てが狂った。
ネットで調べた人気のオープンカフェは、「この雨じゃ閉まってるよ」と琳香に教えられ、一蹴される。
地形を知らない兵の限界だった。
***
「……お姉さんに、会わなくていいの?」
琳香に促され、嶺は姉の凪咲に電話をかけた。
しかし、電源が入っていないのか繋がらない。
「バイトかも。場所知ってるから、連れてってあげる」
琳香に連れられて、バイト先に向かう。
(こうなったら、姉ちゃんでも驚かせてやるか)
そんな軽い気持ちが、姉を見て一変する。
琳香の案内に従い、向かった先。
そこは、華やかな都会の象徴でも、憧れの街並みでもなかった。
雨に濡れ、泥にまみれた道路工事の現場だ。
「右、止まってくださーい! はい、左どうぞー!」
オレンジ色の誘導灯を振る、カッパ姿の女性。
それが、姉の凪咲だった。
「凪咲さん、実家の負担を減らしたいって言ってた」
隣で、琳香が静かに教えてくれた。
将来、医者になるために。
高額な学費を、少しでも自分の力で稼ぐために。
彼女はこの泥だらけの戦場で、黙々と戦っていたのだ。
嶺は言葉を失った。
(……俺は何をしていたんだ?)
背伸びした店を選び、都会に馴染んだ自分を演じようと必死になっていた。
泥を啜って未来を掴もうとする姉の姿に比べ、自分はあまりに空っぽだ。
「……帰ります」
「会わなくていいの?」
声をかけることすら、できなかった。
(格好ばかり気にしていた自分には、この街の地面を踏む資格すら、まだない)
***
無力感とともにオープンキャンパスを早々と切り上げる。
帰りの新幹線。
窓の外を流れる夜景が、滲んで見えた。
(……やっぱり、俺には似合わないんだ)
家に戻ると、嶺は、夕食も取らずに自室に引きこもった。
「なあ、兄ちゃん、
『兵を形すの極みは無形に至る』って知ってるか?」
ドアの向こうから灯莉の声がする。
「『恰好つけずに、そのままでいい』という意味だ。
兄ちゃんは、背伸びしすぎだっぺ」
図星を突く灯莉に「うるさい!」と怒鳴り散らし、
嶺は深い自己嫌悪に沈んだ。
「授業を始めるよ」というメッセージだけが、
スマホに溜まって行った。
***
琳香とのやり取りが途絶えてから数日が経ったある日。
ドアが激しく叩かれる。
「入るぞ、兄ちゃん」
灯莉が、無理やりスマホを突き出してきた。
「琳香さんからだ。
兄ちゃんが既読もつけないから、あたしにかかってきたべ」
スマホの向こうから、琳香の声がした。
「嶺くん。勉強、やらないの?」
責めるでもなく、問い詰めるでもない。
ただ、いつも通りの穏やかな声。
その優しさに、嶺の喉が熱くなる。
「……すみません。明日から、またお願いします」
その夜、嶺は再び机に向かった。
(……背伸びをするのは、もうやめだ)
まずは、自分の足元の泥をしっかりと踏みしめる。
それが、この戦場で生き残るための、最初の一歩だった。




