第2話 戦わずして勝つ
桜の花びらが散り、季節が一段階進んだ頃。
嶺は、高校三年生に進級した。
それと同時に始まったのは、週末のルーティン。
スマホの画面越しに行われる、琳香さんとのリモート授業だ。
「……ここの解法、もう一度説明してもいいかな?」
ヘッドセット越しに届く、落ち着いた声。
嶺は喉の奥を鳴らしながら、慌ててノートを画面に映した。
画面の向こうの琳香さんは、相変わらず綺麗だった。
部屋の背景に映る観葉植物や本棚まで含めて、どこか完成された大学生の世界。
(……自分とは違う場所に生きている人なんだな)
そんな距離を、ふと感じてしまう。
そのときだった。
『――ねえ、リモコンどこだっけ?』
低く、落ち着いた男性の声が聞こえた。
「……っ」
嶺の手が止まった。
心臓の音が妙に大きくなる。
(今の……男の声? 誰だよ、今の)
「ごめん。ちょっと待ってね」
琳香さんがそう言って、画面から一瞬外れる。
その数秒が、やけに長く感じられた。
(……彼氏なのか? まさか、同棲!?)
一度浮かんだ疑念は、簡単には消えてくれなかった。
それ以降の解説は、まったく頭に入らなかった。
***
リモート授業が終わり、嶺は放心状態のまま机に突っ伏していた。
そこへ、後ろから遠慮のない声が飛んでくる。
「兄ちゃん、これ見れ」
妹の灯莉だ。
差し出されたスマホの画面には、琳香さんのSNSが表示されていた。
お洒落なカフェのテラス席。
隣で笑う、背の高いイケメン大学生。
タグには『御影先輩』の文字。
「……無理だ。勝ち目がねえ」
思わず、弱気な声が漏れる。
「住む世界が違いすぎる」
地方の高校生と、東京の大学生。
最初から勝負にならない。
「兄ちゃん、勝手に敗北宣言してどうすんの」
灯莉は呆れたように腕を組んだ。
「今の兄ちゃんのは、『戦わずして勝つ』じゃなくて、
『戦わずして負け』だべ」
「うっせぇな! 気になるもんはしょうがねえべ!」
***
その焦りは、次のリモート授業で最悪の形となった。
琳香が問題の解説をしている途中。
嶺の口は、頭より先に動いてしまった。
「あの……琳香さん。この前、聞こえた声って……SNSの人ですか?」
一瞬。
画面の向こうで、琳香の表情が凍りついた。
「……嶺くん」
声のトーンが、明らかに変わる。
「それ、授業と関係ある?」
「い、いや……その……」
「プライベートな質問だよね。それって、セクハラだよ」
「セ、セクハラ!?」
(……終わった。完全に嫌われた)
「私は先生としてここにいるの。
やる気ないなら、もう切るよ!」
ピシャリ、と冷たく言い放たれた。
その一言で、嶺の頭は真っ白になった。
その日の授業は、そこで強制終了となった。
***
「……消えてしまいてえ」
ベッドに倒れ込み、嶺は天井を見つめていた。
そこへ、文庫本を片手に軍師が現れる。
「やらかしたな、兄ちゃん」
灯莉は『孫子』のページを開き、指で一行を叩いた。
「孫子にはこう書いてあるべ。
『戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり』」
「……どういう意味だべ?」
「簡単だ。都会の男と同じ土俵で殴り合おうとするから負けるんだべ」
灯莉はニヤリと笑った。
「兄ちゃんの『実』で勝負しろ」
「俺の……実?」
「そう。兄ちゃんの強みだ。
琳香さんにとって、一番の理解者で、一番教えがいのある生徒。
そのポジションは、誰にも代われねえんだべ」
嶺は、はっと息を呑んだ。
嫉妬して疑って、自爆している場合じゃない。
(……この時間を大事にしたいと思える存在にならなきゃダメなんだ)
それが、戦わずして勝つ道。
嶺は静かに拳を握りしめた。
***
次の授業。
嶺は、カメラに向かって真っ先に頭を下げた。
「この前は、すみませんでした。
……これからは、受験勉強に集中します。
時間は、もう一秒も無駄にしません」
琳香は少し驚いた顔をしてから、静かに頷いた。
それからの嶺は、何かに憑りつかれたように机にかじりついた。
英単語、数式、過去問。
(……もう二度と、呆れられたくない。
この繋がりを、失いたくないんだ)
一ヶ月後。
届いた全国模試の結果。
偏差値は前回より、10点も跳ね上がっていた。
「嶺くん、すごいよ!」
画面越しに、琳香の顔がぱっと明るくなる。
「この伸び方なら、合格圏内も見えてくるよ!」
その笑顔を見た瞬間、嶺は気づいた。
あれほど苦しかった勉強が、今は少しだけ、楽しい。
……戦わずして、勝つ。
その第一歩は、確かに踏み出されていた。




