第1話 出会い
「ただいまー。はぁ、やっぱこっちは、まだ冷えるねぇ」
玄関の戸が開いた瞬間、春というには冷たすぎる風が家の中に流れ込んだ。
帰省してきた姉――浅木凪咲。
医大四年生。
相変わらずのよれよれスウェットにジーパンという、女子力をどこかに置き忘れた格好だ。
……が。
その背後に立つ人物を見た瞬間、浅木嶺の心臓は、本気で跳ねた。
「春休み、一人だって言うからさ、連れてきたのさ。
ボランティア仲間の深見琳香ちゃん。
うち、民宿みたいなもんだからって、無理やり誘ったの」
姉の気軽すぎる紹介とは裏腹に――
そこに立っていたのは、嶺の人生に存在しなかった種類の“光”だった。
透き通るような肌。整った鼻筋。
洗練された淡いピンクのワンピースに、薄手のトレンチコート。
ヒールの高い白いパンプスが、場違いなほど都会の空気を主張している。
「はじめまして。深見琳香です。お邪魔します」
柔らかな声とともに、丁寧なお辞儀。
その拍子に、軽いウェーブのかかった明るい髪がふわりと揺れた。
(……ヤバ、女神降臨)
第一印象で、完全敗北だった。
「あ、えっと。
は、はじめまして。浅木、嶺、です。
よろしく、お、おねがいし、ます……」
慣れない標準語に挑戦した結果、
イントネーションは迷子、声は見事に裏返った。
「ぷっ……兄ちゃん、声裏返ってらよ。
曹操なら『初陣で動揺する兵は使えぬ』って言うべ」
背後から、煎餅をかじりながら妹が顔を出す。
浅木灯莉。
凪咲の卒業した中高一貫の県下一の進学校に通う重度の三国志オタク。
「うるさい、灯莉! 黙ってろ!」
「動揺を隠そうとするのは、心の防壁が薄い証拠だぞい。
魏武帝注の孫子にも書いてあるべさ」
(頼むから黙っててくれ)
「灯莉、兄ちゃんをからかうもんじゃねえぞ」
凪咲の言葉に、灯莉は肩をすくめる。
優秀な姉と、優秀すぎる妹。
その間に挟まれた嶺は、常に劣等感とセットで生きてきた。
そのやり取りがおかしかったのか、琳香は、うふっと笑う。
嶺は急に恥ずかしくなり、顔を赤らめた。
それでも。
嶺は、琳香から目を逸らせなかった。
彼女の話す標準語は、テレビの向こう側みたいに綺麗で、
この古びた地方都市とは、明らかに違う重力を持っていた。
***
その夜。
嶺たちは近くの早咲きの花見スポットへ、夜桜見物に出かけた。
街灯の少ない夜道。
コートの襟を押さえながら歩く琳香の姿は、
そこだけスポットライトが当たっているように眩しかった。
すれ違う男たちが、揃って足を止めるのも無理はない。
「わあ……すごい。星がこんなに近くに見えるんだね。
空気が美味しいって、こういうことなんだ」
子どもみたいに無邪気な笑顔。
都会の人間だと思っていたのに、その表情は意外なほど素朴だった。
「あ、あの……東京、は……星、見えないんですか?」
「うん。ビルばっかりだからね。
嶺くんも、来年からは、こういう景色が見られなくなるかもよ?」
そう言って、こちらを見て微笑む。
「お姉さんから聞いたよ。
私と同じ大学を目指してるんだって?」
「は、はい。教育学部、です。
琳香さんは、児童心理……ですよね。
僕も、その……興味があって」
「嬉しいな。東京で会えるの、楽しみにしてるね」
――楽しみにしてる。
その言葉が、耳の奥で何度も反響した。
このまま彼女を“姉の友達”として帰してしまったら、
嶺は、今の味気のない受験勉強のような日々が、
一生続いてしまう気がした。
「兄ちゃん、このまま帰していいんか?」
横から、灯莉がぼそっと囁く。
「敵の城門が開いてるうちに攻め込まねえと、
一生落とせねえぞい」
「お、お前、そんなんじゃ……」
琳香は、二人のやり取りを首を傾げながら見た。
その後ろで、ライトアップされた桜が、やさしく揺れた。
***
帰京前日。
駅へ向かう車の横で、嶺は人生最大の勇気を振り絞った。
「……琳香さん!
あの、受験相談にのってくれませんか?」
「ちょっと、あんた何言ってんのさ」
姉が呆れるが、嶺は引き下がらない。
「あの……学部の攻略法っていうか……
傾向と対策を、現役の人に聞けたらなって……。
……だめ、ですか?」
琳香さんは一瞬目を丸くし、
それから、ふわりと微笑んだ。
「私でいいの?
相談相手くらいなら、いいよ」
そう言って、スマホを差し出す。
「はい、これ私のID。登録しといて」
画面に表示された琳香のアイコンを見つめる。
自分に微笑みかけているようで、嶺は勝手にニヤついてしまう。
「じゃあ、今度はリモートだね」
琳香は、そう言って電車の窓から手を振った。
見送る嶺の横で、灯莉が、意味ありげに笑う。
「『軽地』――敵国に入って間もない場所――への侵入成功だべ。
やったな、兄ちゃん」
まだ、空気は吐く息が白くなるほど冷たいのに、
嶺の心は、ぽかぽかと暖かかった。




