紫蘭の花が咲き誇るとき
手に持ったスマートフォンが、小さく震える。
アタシ・妙中羽月は、香奈、萌葉と一瞬顔を見合わせ、一人で歩いていった。
スマートフォンを確認すると、遥からのメッセージが一件届いていた。
haruka『準備完了。各自、動いてください』
わかってる。
アタシはそんな事務的な合図をチラリと見てから、ある人のもとへと駆け出した。
待ってろ……!
教室を飛び出して、校舎の中を駆け巡る。
クソッ、どこにいるかわからない……!
アタシはチッと舌を打った。
ちょうど走るのに疲れてきたころ、人影を見つけた。
いた。
アタシは彼女に近づき、口を開きかけて――閉じた。
なぜかはわからない。
本能的に、アタシは話しかけることができなかった。
クソ、この意気地なしが……!
アタシは、グッと拳に力を入れると、口を開いた。
きっと、アタシはこいつが怖いんだ。
でも、そんなのどうだっていい。
アタシがこれをしないと、遥の準備が無駄になる――!
「久しぶり……っていうのは、変か。少し話さないか? 亜綺羅」
すると、彼女――神原亜綺羅は、ゆっくりと振り返った。
アタシは、逃げ場を求めて後ろに下がろうとする足をじりっとコンクリートに固定し、亜綺羅の目を強く見つめた。
亜綺羅は、少し驚いたように、口を小さく開けていた。
……間抜けなツラだ。
「は、羽月……」
亜綺羅はこちらに向かって、手を伸ばす。
……が、途中でピタッと動きが止まった。
そして、亜綺羅はそっぽを向き、こちらを見ようとしなくなった。
「何? いまさら」
ツンとした口調で、意地悪く人をいじめてきたヤツとは思えない。
脚に触れた手が、フルフルと震えているのに気づく。
ああ、アタシって、震えていたんだ。
アタシは震えを根性で抑えようとした。
気持ちを強く持て。
負けるな。
のまれるな……!
根性で解決しようとするなんて、いつものアタシでは考えられない。
アタシらしくない。
――上等だ。
古いままのアタシじゃ、アンタには勝てないから。
アップデートしてやるんだ――!
アタシは、ニヤリと笑った。
「アンタと話がある。華道部の部室に来い」
そう言ったあと、アタシは全速力で走り始めた。
地面に靴があたって、パタパタと軽快な音を立てる。
「ああっ、ちょっと!」
すると、亜綺羅も慌ててアタシを追いかけ始めた。
まるで、子どもの追いかけっこだ。
実は、ここから先にどうやって華道部の部室まで連れて行くかは、全てアタシに委ねられていた。
つまり、ここから先は完全なアドリブ……!
今日この瞬間のことを、何度思い描いたことだろう。
何度も脳内でシュミレーションして、何度も脳内でやり直した。
現実は、コンティニューできないから。
エンディングが流れたらそこで終わり、というわけではない。
現実には、必ず続きが付き纏ってくる。
正直、ウザい。
でも、ウザくていいじゃん。
ウザい続きも、笑える続きにするために、アタシは今を変えたい。
遥たちと、一緒に。
そのために、アタシは今できることを全力でやるんだ――!
アタシは、後ろをチラリと見た。
亜綺羅は、ちゃんと追いかけてきている。
アタシは、フッと笑う。
亜綺羅と追いかけっこなんて、初めてだ。
アタシは、どんどんスピードを上げていった。
アタシだって、ただゲームをしているだけじゃない。
運動だって得意だ。
もちろん、走ることも。
それくらい、亜綺羅なら知ってるだろ?
アタシは、少しずつ亜綺羅を離していく。
亜綺羅は、いわば「体育のときに『私できないから〜』と諦めて友達としゃべる系女子」だ。
授業を真面目に受けていないから、こんなに体力の差が出るんじゃないか?
それと、運動部ナメんな。
アタシは、テニス部に所属している。
亜綺羅は、卓球部だったか?
「卓球部は運動部じゃないから」、って言ってたもんな。
が、亜綺羅もグングンスピードを上げてくる。
⁉︎
亜綺羅に、あんな体力があったとは……!
マズい、追いつかれる。
どこかでまきたいのだが……!
後ろから、荒く乱れた息遣いが聞こえてくる。
バタバタとした足音も相まって、改善点がいくつも浮かんでくる。
が、亜綺羅は、この追いかけっこに必死だ。
クソッ、コイツはなんなんだよ……!
アタシも、負けじと速度を上げる。
心臓が限界だ、それに汗も滲んできて気持ち悪い。
さらに、初夏の十六時の太陽がアタシを照らしてきて、まさに四面楚歌だ。
まるで、初夏の端まで追いやられていくようだ。
ああ、現実がゲームだったらいいのに。
ゲームだったら、コントローラーに付いているボタンやスティックを操作するだけで勝てるのに……!
負けたくない……!
負けるわけには、いかない……!
アタシは、重くなっていく足を、無理やり前へ前へと進めた。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ」
テニス部の底力、見せてやるよ……!
アタシは、苦しい肺を無視して、走り続けた。
苦しくて歪む視界に、ぼうぼうに生えた草が見えた。
視界の端に、薄紫が走る。
走っているのは、アタシのほうだけど。
あの花も、遥が教えてくれた。
紫蘭というらしく、うつむきがちに咲くかわいらしい花だと思った。
かわいいと思うなんてアタシらしくないとは思ったが、感じ方は人それぞれ、と遥は優しく笑ってくれた。
花言葉は――あなたを忘れない。
アタシは、そうやって楽しく語ったあの日のことを思い出す。
少しだけ、スピードが上がった……気がした。
アタシは、亜綺羅のことを忘れないだろう。
そして、遥のこともきっと、忘れない。
二人は真逆だけど、二人は真逆の意味でアタシを変えてくれたから。
「ハァッ、ハァッ、ハハッ……!」
なぜだろう、楽しくなってきて、アタシは駆けながら笑い声をあげた。
上を見上げると、どこまでも明るい太陽が、アタシと一緒に笑うように煌めいていた。
部室棟に着く前に後ろを見ると、亜綺羅は随分と後ろにいた。
アタシは部室棟に行く道から大きく外れたところまで走った。
これで、亜綺羅をまけただろう。
ここで、アタシの任務は終了だ。
きっと、亜綺羅は部室に到着しただろう。
アタシは手の甲で額の汗を拭い、校舎の壁にもたれかかった。
冷たい壁が、火照った体に心地よかった。
「あとは頼んだ、遥……!」
アタシは、部室棟の方向に向かってつぶやき、スマートフォンでメッセージを送信した。
―――
「羽月ーっ!」
「羽月!」
あたしと香奈は、羽月のほうに駆け寄った。
さっき、羽月から任務完了の報告と居場所が送られてきて、あたしたちは急いで駆けつけた。
羽月は、壁にもたれて疲れたように息を吐いていた。
あたしは、それを見て安心する。
羽月は、やり切れたんだ。
「お疲れさま! どうしたの、そんなに汗かいて」
「暑そう……もしかして、走ったの?」
隣の香奈は、呆れたように羽月を見た。
普段、しっかり者の羽月がこんな視線を向けられることなんてないから、新鮮でちょっとおもしろい。
羽月は、少しイタズラっ子みたいにニッと笑った。
「ちょっと、本気で走りすぎたな。今ごろ、亜綺羅がゼェゼェ言ってて、遥も驚いてるんじゃないか?」
「あっはは、確かに!」
あたしは、つい声に出して笑ってしまった。
そこで、気づいた。
羽月って、こんなこと言えたんだ……。
今日はなぜか、ちょっと羽月の様子がおかしい。
冗談めいたことを言うし、五月の校内を走るし。
でも、それは悪い変化じゃなくて。
むしろ、いいほうなのではないか、と思えてきた。
羽月が楽しそうなら、あたしはそれでいいや。
「覚悟を決めた遥は、何事にも動じないと思うけど?」
香奈が、いつものように落ち着いた様子で微笑む。
……いや、違うな。
いつもより、体の前で握る両手が、ギュッときつく握られている。
香奈も、緊張してるのかな。
……あたしだけじゃ、ないんだ。
羽月が変なのも、緊張からなのかもしれない。
神原に追いかけっこ? で勝てて、嬉しいのもあるとは思うけどね。
なんにせよ、みんな遥のことを心配しているんだ。
遥、大丈夫かな。
一人で神原と会う、という作戦を聞いたとき、すごく驚いたし、心配した。
神原相手に、一人で?
本当に、そんなことできるの……?
あたしは、不安でいっぱいだった。
でも、遥から聞かされた作戦を頭の中で反芻していくうちに、「できるかも」と思えてきた。
だから、あたしは遥に託した。
遥の両肩には、たくさんの人の想いが乗っている。
あたしには想像できないけど、プレッシャーだってめちゃくちゃあるだろうし。
……怖いよね。
あたしだったら、一人でそんなことできない。
でも、遥だったらきっとやり遂げてくれるはずだ。
ここからは、遥の指示が出なくなる。
あたしは、何度も確認してきた作戦の流れを、もう一度頭の中で確認した。
きっと、大丈夫!
そうやってほっぺたを両手で挟むように叩き、自分に喝を入れる。
あたしの足は、ガクガクと震えていた。
―――
ぺちん!
萌葉が、頰を思いっ切り叩く。
痛そう……でも、気合いを入れるにはもってこいだ。
私は、萌葉に倣って自分の頬を叩いた。
パチン!
手のひらと頰に、ジリジリとした痛みが広がっていく。
痛い、けど気持ちがいい痛みだ。
おかげで、完全に目が覚めた。
そんな私を見た二人は、口を押さえて肩を震わせ始めた。
?
私が首を傾げると、萌葉はもう限界だと言うように、堪え切れなくなった笑いを爆発させた。
「ハハハハハッ、ダメだ、笑っちゃう……!」
「な、なに?」
「フッ、笑わせるなよ、香奈……」
羽月までもが、微かな笑い声を出す。
そんなに、おもしろかった?
「はあっ、おもしろ……。だってさ、香奈、あたしのマネしてたじゃん……! ヤバい、ジワる〜」
「真顔だったぞ、二人とも……!」
意味がわからない。
萌葉のマネをしたのは事実だけど、そんなにおもしろく見えたんだ。
私には、萌葉がやったときはおもしろく見えなかったけど……。
ああ、そんなことはどうでもいいんだ。
遥から託された、大切な仕事をしないと。
私は、じっとりと汗ばんだ両手をそっとスカートで拭いた。
そして、あるところへと向かうため、歩き始めた。
「……萌葉、行くよ」
「わかってる!」
ここから、私と萌葉の戦いが始まる。
だからどうか、遥も頑張って……!




