石楠花の花が咲き始めるとき
その日の放課後は、曇り空だった。
「よい、しょ。ふう、終わり!」
私は、女子トイレにゴミ箱を戻して息をついた。
放課後、私はトイレ掃除をしていた。
トイレには、私以外に人はいない。
なぜなら、私がゴミ捨てを自ら一人で引き受けたからだ。
掃除班の女子は私以外にも二人いたのだが、ゴミ捨てをしている間に掃除が終わったら帰ってもいいと言っておいたので、先に帰ったらしい。
私がゴミ捨てに行く前に、二人は「浅井さんマジありがとー!」「さすが優等生だよ!」などと言っていた。
私は、優等生らしい。
昔からいい子いい子と言われていたので、どうやら私はそれに応えることに慣れてしまったみたいだ。
手を洗い、ハンカチで手を拭きながらため息をつく。
私は、なぜ優等生をやめられないのだろう。
もっと人の目を気にせずはっちゃけられたら、どれだけ楽なのだろうか。
私は、いつからか、人の目を気にしすぎるようになってしまったのだ。
心の中では、私は優等生でもなんでもない、普通の人間なのに。
って、いけないいけない、気分が沈んでしまった。
軽く頰を両手で叩いて、トイレを出る。
建て付けの悪い扉が、キィと音を立てた。
教室まで戻って、バッグを取りに行かないと。
まだ閉まってないといいけど、と心配しながら廊下を歩いていくと、私のクラス・一年三組の教室からはまだ明かりが漏れていた。
中に誰かいるのだろうか。
チラリと中を覗くと、教室の中では女子が二人で喋っていた。
一人は、クラスの中でかなり発言力の強い、いわゆる一軍女子、神原亜綺羅さん。
もう一人は、その取り巻きである妙中羽月さんだった。
ちなみに、その二人は萌葉ちゃんや香奈ちゃんと同じ中学校だったと聞いている。
二人は、私が外にいることに気づいていないようだ。
私は教室の扉に手をかけ、中に入ろうとする。
すると、
「浅井さんさぁ」
「えっ?」
突然、神原さんが私の名を口にした。
だが、それは私に対して発せられたものではなかったようで、神原さんの視線は妙中さんに向いたままだった。
なんとなく入りづらくなって、私は扉の外から私の話題が去るのを待つことにした。
でも、これって盗み聞きだよね。
盗み聞きは、よくないことだと思う。
いっそ、今から遠くに行って待つか、と思っていたそのとき。
「浅井さんとあいつら、仲良くない?」
あいつら……?
それは一体、誰のことなのだろうか。
私は息を殺して扉に張りついた。
これから神原さんが語る話の内容なんて、わかりもせずに――。
「それな。まあ、浅井さんは知らないからね。あいつらの本性」
妙中さんが、笑い混じりにそう言う。
私の心臓が、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、と嫌な音をたてた。
本性って、なんのことなの?
ねぇ、それは、誰の話なの……?
私が扉の外で聞いているとも知らずに、神原さんはこう続けた。
その一言が、私の高校生活を大きく変えるとも知らず。
私は、聞いてしまったのだ。
「夏海はいじめっ子だったし、夜野は大きな犯罪を裏で糸引いてた。中学のころ、あいつらホントにヤバかったよね」
……え?
私は、その場で固まった。
萌葉ちゃんが、いじめっ子?
香奈ちゃんが、大犯罪の黒幕……?
嘘、だよね。
反射的に、私は自分の口元を手で覆った。
教室の中にいる二人は、私が外で動けなくなっているとはつゆ知らず、遠慮なく話し続けている。
「あいつら、浅井さんみたいな優等生と、なんで仲がいいんだろ?」
違う、私は優等生じゃない。
「まあ、浅井さんは中学時代の夏海と夜野のこと、知らないからね。あいつら、高校では大人しいんだよ。なんでかって、浅井さんみたいなやつと仲良くなるためにさ」
違うよ、萌葉ちゃんと香奈ちゃんの行動に、裏なんてないはず。
「なるー。それでまた、いじめの対象にするんだ」
「犯罪の手先にするかもしれないよ?」
違う、二人はそんな人間じゃない……!
「やっぱ、あいつらヤバいわー」
キャハハハハハ‼︎‼︎
と、神原さんと妙中さんが大声で笑い出す。
その甲高い笑いに耐えられなくなり、私はさっきまでいたトイレに駆け込んだ。
勢いよく女子トイレの扉を開けると、キィ、と扉が小さく軋んだ音をたてた。
その音が、どうかあの二人に聞こえていませんように。
聞こえていたら、と思うと震えてくる。
どうか、神原さんたちがこっちに来ませんように。
どうか、どうか、と祈る。
「ハァ、ハァッ、ハァッ」
私は、浅い呼吸を繰り返す。
これが、過呼吸というものなのだろうか。
トイレの壁に手をつき、肩で呼吸をしていても、頭の中を駆け巡る先ほどの会話は消えてくれない。
違う、違う違う違う違う違う違う違う違う違う!
消えて、消えて消えて、消えてよ、お願い……!
誰か、嘘だって言って。
さっきの話を否定して。
お願い、誰か……!
突然、お腹にチクリと内部から刺されたような衝撃が走る。
私は、力なく個室の扉を開ける。
便座に座り、お腹の痛みに耐える。
ストレスから腹痛がくるって本当なんだ、なんて関係のないことだけを考えていたかった。
頭までクラクラしてきた。
もう嫌だ。
あの子たちなら、絶対そんなことはしないと言い切りたい。
だけど、完全に信用することもできない自分が嫌だ。
信じてあげたい。
信じたい。
でも、その話が本当だったら?
そんなことを考えていたら、徐々に痛みが引いていったので、個室を出る。
ゴミ捨てをしたあとと同じように手を洗い、ハンカチで手を拭う。
純白のハンカチはすっかり水に濡れて、まるで萎えた花だ。
深呼吸して心を落ち着けてから、軋む扉を開ける。
教室にはまだ明かりがついていて、神原さんたちもまだ残っていた。
「それでさー、私の推しがー」
私がトイレに行っている間に、話は別の話題に移っているようだった。
震える手足に力を入れ、意を決してゆっくりと扉を開ける。
うつむきながら教室に足を踏み入れると、
「あれ、浅井さんじゃん。あっ、そっか、浅井さんの班はトイレ掃除だったっけ?」
と神原さんが私に気づいて首を傾げた。
「うん、そう」
震える声でそう答えて、窓際の自分の席に置いてあるスクールバッグを肩にかける。
すると、神原さんが心配したような声音でこう言った。
「浅井さん、顔色悪いよ? 大丈夫?」
「……。うん、大丈夫」
本当は、大丈夫ではなかった。
が、そう答えて、私は足早に教室を出た。
一刻も早く、家に帰りたかった。
―――
家につくと、私は糸が切れたかのように大きなため息をついた。
「ただいま」
「おかえり、お姉ちゃん」
リビングの扉から、中学生の妹がチラリと顔を出す。
そして、私の顔を見るとすぐに駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん、顔色悪くない? 大丈夫なの?」
妹の慌てたような表情に、本当に私のことを心配してくれているんだ、と思い安心した。
ふっと口元を緩め、
「私は大丈夫だよ。……ちょっと、嫌なことは聞いちゃったけどね」
と妹の頭を撫でる。
大丈夫と言っていたら、本当に大丈夫になる気がした。
すると妹は、私の手を鬱陶しそうに払った。
「お姉ちゃん、やめてよ。私、そんな子供じゃないんだから」
「私にとっての此方は、いつまでも幼稚園児のままなの」
「うっわ、お姉ちゃんひどい! 私、もう中二なんだからね!」
此方がムキになるのがおもしろくて、私は声をあげて笑った。
私が笑うのがさらに気に障ったのか、此方は「もうヤダ!」とそっぽをむいてしまった。
そんな日常の喧嘩めいたやりとりにも、私はとても安心したのだ。
いつの間に晴れてきたのか、リビングの窓から柔らかく日が射す。
うん、あの話は嘘に違いない。
私には、萌葉ちゃんと香奈ちゃんが悪人とは思えない。
今夜はたっぷり寝て、また明日になったら二人と話そう。
それで、嘘の話だと否定してもらおう。
からかいがいのある妹のおかげで、私はそう思えるまでに気分が回復していた。
うちは花屋を営んでいる。
華道部に入ろうと思ったのも、小さいころから花に触れていたからだ。
最近入った石楠花が、リビングの花瓶で綺麗に微笑んでいるように見えた。
でも、気をつけて。
石楠花には、毒があるから――。




