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12/24

杜若の花が咲き誇るとき

 私は、その次の日もきちんと学校に行った。


 気分は最悪。


 でも、神原さんを敵視している人たちが同じ空間にいる、ということがわかっているので、不思議と少し安らげた。

 被害者の会の人たちが誰なのかは、わからない。

 けれど、この中にいるんだ。


 攻撃的な言葉を扱い、神原さんを憎んでやまない人たちが……!


 被害者の会の人たちは、いつ何をしだしてもおかしくないくらい、神原さんのことを敵視していた。

 なので、油断は禁物だ。


 今はまだ、そのときではない。


 今神原さんに刃向かっても、弱い私たちには何もできない。

 少しの間、様子見をしようと思っていた。

 そう、少しの間。


 ――そう、考えていたのに。


 ―――


「ハァッ、ハァッ、ハァッ」


 小さく聞こえる、荒い息遣い。


 私は、その音がする扉を、勢いよく開けた。


 そこにいたのは。


「萌葉ちゃん……?」


「っ⁉︎」


 っ!


 体がすくむ。

 突然向けられた、ナイフのような視線。

 彼女の目は、ギラギラと光っていた。


 ここは、女子トイレ。

 本当なら、こんな剣呑な雰囲気は似つかわしくない場所だ。


 ――本当なら。


 それは、その日の放課後のことだった。


 トイレ掃除がまたまわってきたので、私はあの日のように、最後まで残って掃除をしていた。

 あの日のように同じ班の二人を先に帰して、一人でゴミ捨てをした。


 今、私の手にはゴミ箱が収まっている。

 私は、ゴミ箱を壁際に戻す。

 そして、視線を萌葉ちゃんに戻した。


 視線の先では――萌葉ちゃんが、壁に手をついていた。

 彼女は、目を大きく見開いて、鋭く浅い呼吸を繰り返している。


 その光景を見た瞬間、私の胸の奥で何かが動いた。

 激しく波打つ、心臓。

 フラッシュバックする、あの日。


 私は、この光景を知っている……。


 ドクン、ドクン


 心音は、どんどん大きくなっていく。

 それにつれて、あの日も鮮明になっていった。



 これは――あの日の、私だ。



 あの日――神原さんが萌葉ちゃんと香奈ちゃんの悪口を言っていた日。

 私は、女子トイレで身を潜めていた。


 今の、萌葉ちゃんのように。


 視線の先の萌葉ちゃんは、弱々しく笑った。


「あはは……。ごめん、驚かせちゃって」


「ううん……。どうしたの?」


 私は、萌葉ちゃんにそう問いかけた。

 すると、萌葉ちゃんは苦しそうに弱く微笑んで、言った。


「さすがに、悪口はもうこりごりだなぁ……。なんで、あんな噂信じちゃうんだろ……。みんな、バカなの?」


「萌葉ちゃん……」


「『夏海萌葉はいじめっ子の問題児だ』って、クラスのみんなはそう言うよ。あたし、人をいじめたことなんてないのに」


 私の中で、不安がムクムクと大きく形を作っていく。


 まさか、面と向かって何か言われたの……?


 というか、これまで変化がなかったのがおかしかったのだ。


 萌葉ちゃんは、ずっと我慢して我慢して我慢して、私の前では明るく振る舞っていた。

 嫌な噂にも屈さずに、私はその明るさに助けられていたくらいだ。

 元気なわけが、ないのに。


 なぜ、気づけなかった……?


 私は、唇を強く強く噛んだ。

 痛みも忘れるほど、強く。


 何もかもが、遅かったのだ。

 気づくのが、声をかけるのが、遅かった。


 萌葉ちゃんの心がこんなにすり減っていることに、悲鳴に、笑顔がからっぽだったことに。

 全部、全部。


 もっと早く気づけていたら、萌葉ちゃんがこんなに傷つくこともなかったかもしれない。


 萌葉ちゃんは、私よりも強い。

 心のどこかで、そう思っていたのかもしれない。


 友達が困っていたら、私が助けないといけないのに。

 いつだって、そうしてきたのに。


 そうしている間にも、萌葉ちゃんの顔色は悪くなっていく。

 私が、私が支えなきゃ……!


「萌葉ちゃん、私は萌葉ちゃんの味方だよ! だから、大丈夫。私が、ついているから……。一緒に、みんなに知らせよう? 萌葉ちゃんは、いじめなんて全くしていないって」


 私は、萌葉ちゃんの肩にしっかりと手を置き、真正面から目を見て語りかける。


 萌葉ちゃんの目が、私を捉えた。


 私も、萌葉ちゃんの目を見た。


 私なんかに、萌葉ちゃんを支えられるのか。

 それは、わからない。

 それでも、萌葉ちゃんの心が落ち着く空間を作りたい。

 その気持ちの方が、強い。


 すると、萌葉ちゃんは乾いた目を大きく開いた。

 小さく開いた口は、苦しげに歪んでいるように見える。


「いじめなんて、全くしていない……?」


 萌葉ちゃんの目は、再び虚空を見つめる。


 そうして彼女は、ゆるゆると下を向いた。


「そんなこと、ない……っ! あたしは、いじめをしたやつと同等ぐらいのことをやってたの……! いじめっ子と言われても、仕方ないよ……」


 ぼたっ ぼたっ


 萌葉ちゃんの二つの目から、大粒の涙がこぼれる。

 その雫が、床に小さな水たまりを作った。


 萌葉ちゃんは、自分の片目を抑えた。


 水たまりが光を反射し、ギラリと輝く。

 そこに、今までの彼女の笑顔が、映った気がした。


「あたしはっ、星那(しょうな)を救えなかった……っ!」


 萌葉ちゃんの悲痛で小さな叫びが、狭い空間にこだました。


 星那……?


 誰のことだろうか。

 萌葉ちゃんの友達?


 救えなかったって、どういうこと?


 私は、萌葉ちゃんに向かって手を伸ばそうとして……やめた。

 こんなことで、萌葉ちゃんを救えるとは思えない。

 かける言葉も、見つからなかった。


「二人とも……?」


 トイレの中に、ゆっくりと香奈ちゃんが入ってくる。

 羽月ちゃんも一緒だ。

 二人は、私たちを見て驚いたような表情をした。


「どうしたの……? 涙、拭きなよ……」


香奈ちゃんは、少し震えた声で、萌葉ちゃんにそっとハンカチを差し出す。

 萌葉ちゃんはそれを一瞥し、ゆっくりとハンカチに手を伸ばした。


 ハンカチは、萌葉ちゃんの目元に吸い込まれるように当てられた。


 ハンカチに咲く菖蒲……いや、杜若に、小さな雫がこぼされていた。


 菖蒲と、杜若。

 その二つの花は、とても似ている。


 まるで、あの日の私と、今の萌葉ちゃんのように。


 羽月ちゃんは、萌葉ちゃんの方を向いてポツリと呟いた。


「外まで聞こえてる。……今、人がいないからいいけど。何があったんだ」


 その声音には、心配の色が滲み出ていた。

 私は、萌葉ちゃんの背中を優しくさすり、二人に事情を説明しようとした。


 けれど。


 香奈ちゃんの顔を見たら、すぐにそんなことはできなかった。

 できるはずがなかった。


「香奈ちゃんこそ。……涙を、拭いてよ……」


 香奈ちゃんの頰に、一筋の透明な線が走っていたから。


 香奈ちゃんは、自分の頰に手をやった。


「あー……」


「それは……」


 羽月ちゃんが、香奈ちゃんをチラリと見てくちごもる。


 これは、何かあったに違いない。


 私は、萌葉ちゃんの背に手を添え、二人を見た。

 なるべく、力を込めて。


「二人とも。私たちも何があったか教える。だから、二人も何があったか教えて……?」


 私が二人に語りかけると、香奈ちゃんはうつむいて、目を伏せた。

 羽月ちゃんは、そんな香奈ちゃんを、困ったように見ていた。


 その様子からは、何か深刻なことがあったということが、ひしひしと伝わってくる。


 私はもしかしたら、いつからか「二人は悪口を言われても平気だ」と思っていたのかもしれない。

 萌葉ちゃんは噂に負けずにいつも元気で、香奈ちゃんも相変わらずクールで。

 きっと、それぞれの部活で神原さんから解き放たれているだろう、と思っていた。


 私の前ではいつも明るく振る舞っていて、平気な顔をしていて、



 だから私は、勘違いをした。



 でも、そうだよね。


 あんなに悪意に晒されて、平気なわけがないんだ。


 むしろ、よくここまで平気なふりをし続けられた、というくらいだ。


 ここから聞く話はきっと、私には想像もできないくらい辛い話なのだろう。


 そろそろ、覚悟を決めなくては。




 ――全てを聞く覚悟を。




 私が決意を固めて前を向くと、私が支えていた萌葉ちゃんの体が、動いた。

 そして、一人で立ち上がった。


「……まずは、あたしから話させて」


 いつもより硬い、萌葉ちゃんの声。


 眉根を寄せて、辛そうに見える。


 まるでスポットライトかのように、窓からの光が萌葉ちゃんを照らした。


 香奈ちゃんにハンカチを返すと、萌葉ちゃんは痛々しい声で話し始めた。



「あたしは、友達を守れなかった――」



 ゴクリ、と唾を飲み込む。


 その友達が、さっき言っていた星那さんなのだろうか。

 守れなかったとは、どういうことだろうか――。


 私は、萌葉ちゃんの搾り出すような、震える声に、耳を傾けた。

 自然と、拳に力が入る。


 萌葉ちゃんの、何かに怯えるような、震えた声を聞くと、私の心臓まで、押し潰されそうになった。


 ――大丈夫。


 深呼吸を一つして、私は萌葉ちゃんに注目した。


 過去を話すのは、辛いだろう。

 私も、それ相応の態度を取らないといけない。

 

 私も、友達を救えなくなる前に。

 手遅れになる前に。

 二人の話を、聞いておきたかった。


 そうして、杜若の花が咲き誇るとき、萌葉ちゃんの懺悔が始まった。

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