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菖蒲の花が咲き誇るとき

「浅井さん、なんだか嬉しそうな顔してるね」


 羽月ちゃんを仲間にした日の、翌日。

 私は放課後、いつものように部活に勤しんでいた。

 ウキウキと生け花をしている私を見て、明石部長はニコニコと微笑んだ。


「楽しいこと、あった?」


 未ちゃんは、小さく首を傾げる。

 未ちゃんのまっすぐなポニーテールが、サラリと肩にかかった。

 私は、未ちゃんたちに向かって微笑みを返す。


「ちょっと、ね。友達が増えたんだ」


「いいねー、賑やかになるね」


 香住副部長が、小さな体をぴょこぴょこさせながら言った。

 その手に持っているのは、菖蒲。

 生け花の今日のテーマが、菖蒲だからだ。

 もちろん、私も菖蒲を花瓶に生けている。

 菖蒲の花言葉は、「良い便り」。

 他にも、「知恵」や「優しさ」、「信念」などなど、明るい花言葉がたくさんある。

 私たちの新しい仲間に、ぴったりな花だと思った。


 私は、羽月ちゃんとの一日を振り返った。


 ―――


 カランカラン!


「遥、何してんの? 鈍くさ。ちゃんと持ってよね」


「あ、ご、ごめん!」


 音楽の授業中、私はリコーダーを落としてしまった。

 すると、隣の席に座っている羽月ちゃんが、ツンとした態度で私に冷たい視線を向けた。

 でも、昨日まで冷凍庫だった鋭い視線は、冷蔵庫くらいまで和らいでいる。

 床に手を伸ばしながら、私はしみじみとそう思った。


 昨日と比べると、今の羽月ちゃんは少しだけ柔らかく見える。

 それが、神原さんにバレないといいけれど。


 リコーダーを拾い上げ、私は座り直そうと上体を起こす。


 その途中、何かとぶつかった。


 痛っ。

 じーんとする頭を抑えながら視線を上げると、すぐそこに羽月ちゃんの顔があった。

 きっと、私がリコーダーを拾っているところを覗き込んでいたのだろう。


 羽月ちゃんもこちらの視線に気づき、私の目を見つめ返してくる。


 いつもより近い距離。

 こちらを見つめる、ビー玉のような瞳。

 人形のような、綺麗な肌。


 心なしか、顔の中心が熱を帯びてきた。

 たった数秒。

 それだけの出来事なのに、無駄に長く、くすぐったい。

 私たちは、どちらからともなく顔を逸らした。


 チラリと羽月ちゃんの顔を盗み見る。

 すると、透明な水槽に真紅の絵の具を落としたように、羽月ちゃんの顔が赤く染まっていった。

 沸騰したみたいに、湯気があがりそうな雰囲気すらある。

 彼女は、はあ、と大きくため息をつく。


 羽月ちゃんも、恥ずかしいんだ。

 私の心の奥が、ぽかぽかと温まる。


 羽月ちゃんが、チラリとこちらを見る。

 また、少しだけ目が合った。

 赤い顔の彼女と。


 私の頰は、勝手に緩んでいった。


 なんだこれ。


 めちゃくちゃかわいい‼︎


 赤く染まった頰。

 ツンとした態度。


 それが、すごくかわいい。


 本当に、仲良くなれてよかった。

 そう思えるくらいに、羽月ちゃんのいる日常は、不思議と楽しい。


 私の胸の奥は、自然と温かくなっていった。


 羽月ちゃんは、クラスメイトに『怖い』というイメージを抱かれやすい子なのだと思う。

 視線が刃物のように鋭く、意地悪な神原さんとも仲が良いから。

 私も、最初は少し怖かった。


 でも、実際話してみると、そんなことは全然なくて。

 逆に、とてもかわいい子だったのだ。

 クラスメイトたちも羽月ちゃんのこんな一面を知ったら、きっと親しみやすくなるだろうに。

 他の子たちにももっと、羽月ちゃん良いところを知ってほしい。


 これまで観察してきて、私はこう感じた。

 羽月ちゃんは、クラスメイトたちとあまり馴染めていないのではないか、と。


 神原さんと、いつも一緒だから。

 神原さんに、縛られているから。

 神原さんの近くにいることを、強制されているから。


 羽月ちゃんには、まだ神原さんと仲良くしていてほしいと言ってある。

 神原さんがまた私たちを陥れようとしていたら、報告してもらえるように。

 羽月ちゃんが私たちと仲良くなったと聞いて、神原さんにさらにひどいことをされないように。


 だから、クラスメイトたちから見たら、羽月ちゃんに変化はないだろう。

 羽月ちゃんには、しばらく耐えてもらうことになる……。

 私は、羽月ちゃんの置かれている環境がどれだけ大変かはわからない。

 わからないけれど、きっととても大変なのだろう。

 まあ、神原さんがそんな『ひどいこと』をしないのが、一番いいのだが。

 仏頂面で頬杖をついている羽月ちゃんの横顔を見ながら、私はそう願ったのだった。


 ―――


「できた!」


 そのときのことを頭の片隅で再生して生けた菖蒲の作品は、思った以上に出来がよかった。

 バランス、彩り、ともに過去最高かもしれない。

 作品からは、嗅いでいるだけで心からスッキリできそうな、爽やかな香りが漂ってきている。


 作品を見つめる。

 心臓が、ドクリと跳ねる。


 それは、今まで味わったことのない高揚感。


 最高傑作を作った。


 それだけで、こんなに気持ちが昂るなんて。


 この菖蒲が、知らない感情を教えてくれたのだ。

 私は、菖蒲の茎をそっと撫でた。


「おっ、遥めっちゃいいじゃーん」


 通りかかった筏莉愛先輩が、私の肩をポンポンと叩く。

 その感触が、一つの作品を完成させたあとの、疲れた体に心地よかった。


「ありがとうございます、莉愛先輩」


 莉愛先輩や千春先輩とは、今ではお互い下の名前で呼び合うようになっていた。


 距離が縮まったように感じられて、すごく嬉しい。


 莉愛先輩は、フフフと笑った。


 そういえば、私は二年生の先輩しか下の名前で呼んでいない。

 三年生の先輩は、二人とも名字で呼んでいる。


 明石部長と香住副部長のことも、下の名前で呼んだ方がいいのかな。


「あの、副部長。副部長のことは、何とお呼びすれば……?」


 私は、ちょうどこちらへやってきた副部長を捕まえ、問いかけた。

 副部長は、ふわっと微笑む。


「下の名前で呼ばなきゃいけない、という決まりはないから……。好きに呼んでいいよ」


「副部長のことは、『かすみんセンパイ』って呼んでもいいんだよっ」


 莉愛先輩が、ケラケラと笑いながら副部長を指差した。


「莉愛ちゃん、それ定着させるつもりー?」


 副部長は眉を少し下げて、でもフフフと笑った。

 反対に、未ちゃんは眉を吊り上げた。

 未ちゃんは、お兄さんである副部長のことが大好きすぎて、ときどきこうなる。

 副部長と他の人が仲良さげに話していると、嫉妬してしまうみたいだ。

 未ちゃんの瞳に、火がついた……気がした。


「……兄さんを取るやつは、莉愛先輩でも許さん……!」


 未ちゃん、怖いからやめて……。

 昔の偉い人は、まさに今の未ちゃんのような人を「緑色の目をした怪物」、と表したのだろうか。


 私は、未ちゃんの火の粉が私まで降り注がないように、少し距離を取った。


 未ちゃんは真剣なのだろう。

 そう思うと、さらにおかしい。


 私は、さっき生けた菖蒲の花とその光景を順に見て、口元を綻ばせた。


 こんな時間が、誰にも壊されませんように。

 大好きな空気を吸い込んで、私はそう祈った。



 花瓶に手を添える。



 ――そのとき。



 ポケットの中のスマートフォンが、小さく震えた。

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