第2章 水竜の贈りし者のこと 2-1
その日、ニニカは驚くべき光景を目撃することになった。
久しぶりに海を眺めていた時に、それは起こったのである。
ニニカが秘密の洞窟を訪れるのは、実に三十日ぶりのことだった。
件の告げ口事件以来、人々が入れ替わり立ち替わりニニカの様子をずっと覗っていたものだから、里を抜けだそうにもその隙がなかったのだ。隠里に住む者達全員がニニカの敵であった。シータの根回しによるニニカ監視網と言って良い。
中には「ちょっとはコソコソしなよ」と言いたくなるほど、あからさまに見詰めてくる里人もいた。ニニカがわざと振り向くと「さっ」と目を伏せたり、そっぽを向いたりする。
余りにも稚拙な監視に、逆にニニカの方が気づかない振りをしてやることにした。
そんな訳で、最初の十日間は里の中で森兎の狩りをしたり、年頃の近い子供達と遊んだりして過ごした。
丸太を立てて組んだ里の防壁の近くには、「ぶらぶら」と散歩している風を装って行ったことはあったが、テムズ川の水を引き込んだ用水路に設置された水車小屋には、間違っても近付かないようにした。
また自由を手に入れるには、里人達を欺くしかない。
大嫌いな窮屈な生活を余儀なくされたが、じっと耐えた。
この点、ニニカの方が一枚も二枚も上手であったといえよう。
十日ほど過ごすと監視の目が緩んだのを感じたが、それでもニニカは里の外へは出なかった。その代わり、時折姿をくらましては、ひょっこり人目がある場所に現れてみせた。
屋根裏だとか床下だとか、ニニカにとって里の中には潜む場所がいくらでもある。隠れている時間が三十分から一時間になり、日によっては数時間も経ってから姿を見せる。
そんなことを繰り返している内に、
「どうせ、その辺りにいるだろう」
「だいたいにして、子供が一人で里を抜け出せるワケがねぇよなあ」
里人の大半がそんな風に思うようになっていた。そうなって初めてニニカは森へ向かったのである。
ニニカの人生で一番我慢した三十日間だった。
そうやってようやく再び掴み取った自由を、今まさに満喫しているという訳だ。
日の光を帯びてキラキラと輝く水面を眺めながら、例によって心は空想の世界に跳び立っている。
今日のニニカは、大海原を疾走する大型船に乗り世界を旅する冒険家だった。
百人以上もの乗組員を抱えた船長だ。巨大な海の怪物と死闘を繰り広げ、やっとのことで討伐すると、その胃の中から金銀財宝がザクザクと出てくる。
ニニカは大金持ちとなった。
武勇伝を聞きつけて、みんながニニカの船に乗りたがった。
その中にケネスと取り巻き三人衆もいる。
「新人は掃除でもしとけ!」
「しっかり磨けよ!」
「ちゃんとヌメリを落とすんだ!」
ニニカの指示で必死に甲板を掃除する四人を見て満足気に頷く。
そんな想像をして一人で「にやにや」しているのだった。
他愛もない。
「え?」
空想の中を漂う視界の中に、突然日常にはないモノが飛び込んできて、ニニカを現実に連れ戻した。
「何あれ・・・」
最初は岩か何かだと思った。しかし、そんなところに岩などなかったはずだ。毎日のように眺めてきた景色だ。間違いない。そして・・・。
「動いてる?」
見間違えではないかと目を疑ったが、遥か彼方、水平線と交わる一点にある小さな影は、少しづつ大きくなってきているようだ。
「くじら?」
見たこともない生物の名称が口を突いて出た。
海には人間なんて一飲みにしてしまうほど、とても大きな怪物が住んでいるのだという。ニニカの空想上の冒険にも敵となり味方となり度々顔を出す生き物だ。
(こっちに向かってきてる?)
初めての遭遇かもしれない。とてもワクワクする。
しかし見る見る内に大きなるその影は、どうも生物には見えなかった。
(船?)
大小様々な岩礁や暗礁が乱立することで生み出された複雑な海流が渦巻くこの辺りの海には、大型船も滅多に近付かない。船乗りは、ここが危険なエリアであると知っているから大きく迂回して通るのだ。なのに向かってきている。
トルキアの領土には、安全に着岸できる場所など皆無であるのに・・・。
ニニカが何時間も海を眺めていても、今まで船が通ることなど、ほとんどなかった。だから今見ているモノが信じられなかった。
(思ったより、ずっと小さい・・・)
今や目視で確認できるほどに近付いてきたそれは、大型船ですらなかった。五、六人乗れるかどうかといった大きさ小舟だったのである。
(あんなので海を渡って来たの?)
とても大海を渡れるような代物ではないことは、船に乗ったことすらないニニカにだって分かる。
目を凝らしてみても、漕ぎ手の姿はどこにも見えない。
しかし小舟は真直ぐに砂浜を目指して進んでくる。
幾艘もの巨大船を沈没させてきた大波も、巨大な渦潮も、波に見え隠れする暗礁ですら「何ほどのことはない」という風に乗り越えて、ひたすらに真直ぐに向かって来るのだ。
小舟が波に抗っているにしてはスピードも速すぎる。
「ありえない・・・」
思わず小さな呟きが漏れた。
「もしかして、魔法の船?」
ニニカは期待に大きく目を見開いた。
「下の砂浜に来る!」
ニニカは削りかけの矢を放り出して、ナイフを片手に走り出した。
軽快な身のこなしで、切り立った崖を岩から岩へと飛び移って降りていく。接近する小舟からは眼を放さないままだ。
(間違いない!ここに来る!)
もう方向転換もできないだろう。
ニニカが砂浜に到着するのとほぼ同時に、小舟が湾の中に入ってきた。
外洋とは対照的に内湾の海は凪いでいる。
小舟は緩やかにスピードを落としていく。
やはり人影はない。舟の中の様子は見えない。
(何か危険なモノが出てきたらどうしよう)
ニニカは「はっ」とした。
興奮して考えなしに降りてきてしまったが、ここには身を隠せるような遮蔽物はない。岩場を登るにしても丸見えになってしまうが、せめてすぐに逃げられるようには身構えておくことにした。
減速した小舟は海上で揺蕩っている。
ニニカは舟から目を離せないでいた。
時が経つにつれ、その記憶には大いに脚色が入ることにはなる。しかし、これから目にする光景は、ニニカにとって生涯忘れられないものとなった。
凪いでいたはずの海が突如として波立った。
海上の小舟が暴風を受けた木の葉のように揺れる。
海が大きく隆起した。
波が割れ途轍もなく巨大な生物が顔を出す。
持ち上げられた海水が、大量に空から降ってくる。
凄まじい大きさであった。それでも巨大生物の全身は見えない。蛇が鎌首をもたげたような首から上だけを海上に現わしている。それだけでも十メートルは優にあるだろう。
ニニカは「ぽかん」と口を開けたまま降り注ぐ海水を避けようともせず浴びている。そのまま悠然と佇む海獣を見上げていた。
あまりの光景に度肝を抜かれてしまったのである。
「水竜・・・」
口から言葉が漏れたことすら気づかない。
その姿は荘厳にして優美。王者の風格とでもいうのだろうか?対峙するだけで魂そのものを揺さぶられるような種としての圧倒的な存在感がある。
まさに神獣であった。
ニニカは逃げることすら忘れて、ただ見惚れていた。
神獣とニニカの目が合った。穏やかな黄色い光を湛えた瞳からは、深い知性が感じられる。
敵意がないことは明白であった。もしそれがあるのならば、ニニカは既にこの世の者ではなくなっていたであろう。
ニニカを値踏みするように「じっ」と見詰めている。
どのくらいの時が経ったのであろうか。
やがて神獣はニニカから視線を外し、顔を水面に近付けると、鼻先で小舟の艫を「そっ」と押した。
滑るように小舟が動き始め、やがて半身を砂浜に乗り上げて停止する。
それを最後まで見届けると、海獣は静かに海へ沈んでいった。
それでも、その反動で巨大な波が砂浜に打ち寄せる。
海獣の巨体が海の中に消えていった。そして二度とニニカの前に現れることはなかった。




