第2章 水竜の贈りし者のこと 1-2
ニニカの秘密基地は、滝壺の近くの洞窟である。
魔の森の中を縦断するテモン川の激流が向かう先に、落差二百メートルほどの滝がある。
ゴツゴツした岩肌を四段に渡って流れ落ちてくる川の水は、直径三十メートル程の滝壺に注ぎ込まれる。滝壺から溢れだした水は、川幅を広げ緩やかな流れとなって海に向かい、今度は四百五十メートル以上も断崖絶壁を落下して海へと合流するのである。
その滝壺の畔に洞窟はあった。
付近には板材が積んである。いづれ洞窟に扉を付けたり、テーブルを造ったりしたいと思って、里からコツコツと運んできた物だ。
入口部分は、大人一人が腰を屈めてどうにか通れるか程度の幅しかないが、中へ入ると意外と開けたスペースが広がっている。子供一人の秘密基地には、過剰な広さであろう。
広間を抜けると奥へと続く道があり、数本に枝分かれして更に先へと伸びている。ニニカの冒険心を満たすには、ここは正に格好の遊び場であった。
これだけの洞穴ともなると、動物の一匹や二匹は生息していそうなものだが、未だ洞窟の内部でそれらと鉢合わせたことはない。
この一帯が「藪睨」の縄張りだからである。
彼のテリトリーに中型以上の肉食獣が迷い込むと、どのように察知するものか、すぐに現れて追い払ってしまうのだ。この一帯の主は、とにかく強い。
実は「藪睨」とはニニカの命名である。里の人々は畏敬の念を込めて「熊王」とか「東の森の主」とか呼んでいる。
それを聞いたニニカは、
(あんなマヌケが王様なら、あたしなんて神様だわ)
と熊王に対して人々が持つような恐れや敬意は全くない。本気で間抜けと思っているのだ。
実際、ニニカは何度も彼と出くわしているが、その度に簡単に逃げ延びてきた。
そして今も・・・。
数メートル向こうで突如として茂みが揺れた。
ニニカは振り返りもしない。聞こえた瞬間に音と反対の方へとスタートを切った。
そのまま近くにあった喬木に駆け上がる。どこに指を掛たら良いかも分からないような大木を、初見で「するする」と登ってしまう。木登りはニニカの特技だった。
灌木の影から姿を見せたのは一頭の闇熊である。
「出たね、藪睨」
笑いながら言ったニニカの姿は、既に巨木の枝の上にある。
ニニカが登った木の下に口惜しそうに駆け寄ったこの闇熊こそが、一帯を縄張りとする東の森の主であった。
通常の闇熊よりも五割増しで身体が大きい。漆黒の剛毛に覆われた手足も実に太い。この腕の一振りに巻き込まれたら、大抵の生物は五体満足ではいられないだろう。一目でそれが分かるほど太い前足である。
左目の上に野獣の爪によるモノと思われる大きな傷跡がある。それが原因なのだろうか。瞳孔が大きく外側を向いてしまっている。
この斜視の闇熊こそが、東の森の主であった。
とにかく大きい。
大きいということは、即ち強さであると言い換えることができよう。
ただし、対峙すれば向かうところ敵なしの熊王だったが、巨体であるが故に隠密行動ができないという弱点があった。如何に息を潜めても、近付こうとすれば、かなり遠くから気取られてしまうのだ。
ニニカと藪睨は、何度か遭遇したことがある。
藪睨の接近を察知すると、その度に身の軽いニニカはたちまち付近の大木に登ってしまう。
通常の闇熊は木登りが不得手ではないが、熊王は違った。大きすぎる身体が災いして思うように身体を持ち上げられないのだ。これがふたつ目の弱点である。
手が届かない程度に高い枝の上に腰かけて、足を「ぶらぶら」させながらニニカが下を見下ろす。
熊王に対して恐れや敬意はないと記したが、熊王を見詰めるニニカの瞳の奥にある感情を端的に表現するならば、「愛情」というのが一番近いかもしれない。
愛玩用の小動物を眺める時、あるいは水槽の中に放した魚を観察する時、そんな時に湧いてくる感情に近いモノがある。
つまり誰もが恐れるこの巨大な闇熊を、
(マヌケだけど、ちょっと可愛い)
と感じているのであった。
勿論、その気持ちが通じるとは、これっぽっちも思っていない。
真正面から向き合えば、大怪我では済まないのは存分に理解しているから、迂闊に近付くような真似もしない。森を歩く時だって藪睨が隠れられそうな茂みは迂回するし、常に登れそうな大樹を確認している。
でも心の中では、(今日も、会えたらいいな)と思っている。
運良く?会えたら、安全な場所から飽きるまで観察するのだ。
この日も心行くまま藪睨鑑賞をすると、慣れない木登りに熊王が「もたもた」とやっている内に、
(またねー)
ニニカは枝から枝へ木から木へと飛び移って逃げおおせてしまったのである。
その足で向かったのは、件の秘密基地である。
ものの十分も経たない内に、ニニカの姿を滝壺付近に見ることができる。
ひんやりとした水飛沫がとても心地良い。
思わず笑顔になって、何度か深呼吸をすると、ニニカは洞窟へと向かった。
入口が狭いから熊王は、中へは入って来れない。
一帯の肉食獣は、大小問わず熊王が追い払ってくれるので、鉢合わせする心配もない。そんな訳でニニカの秘密基地は、危険な魔の森の中にあって、ある意味最も安全な空間となっているのだった。
勿論、様々な工夫もした。
洞窟内には大抵の昆虫が忌避する匂い成分を発するティマルガの葉が、あちこちに大量に積まれていて、毒虫除けになっている。
藪睨は、昆虫までは追い払ってくれないからだ。
洞窟の奥に潜んでいた角蝙蝠の大群は、半年掛りで追い払った。
それとなく里の大人に聞いて色々な方法を試してみたが、どれもあまり効果はなかった。
最終的には蝙蝠が嫌う大蒜草を大量に燃やして燻したのが効いた。煙くて臭くて一週間は中にいられたものではなかったが、匂いが抜ける頃には、角蝙蝠は影も形もなくなっていた。
それからも苦労した。一ヵ月もかけて大量の糞を大掃除したのだ。それがあまりにも大変だったから、再び蝙蝠が住み着かないように、月に一度は大蒜草を燃やすと決めている。今度は少量なので洞内に入れなくなるほどでもない。
それだけの苦労があって、洞窟の主は今はニニカだけとなった。
あとは入口の外に鏡を三枚ほど取り付けた。これらは危険な目にあったので設置した物だ。
半年ほど前のことである。里に帰ろうと洞窟を出たら、すぐ近くに藪睨がいた。それこそ互いに鼻を突き合わせるような格好になってしまった。
これはニニカばかりか、鼻が利くはずの藪睨も予期していない出来事だったようだ。
刹那の時間ではあったが、事実を理解できず「ぎょっ」として固まった。我を取り戻した藪睨が威嚇行動に出ようとした時には、一早くニニカは洞窟に駆け戻っていた。
どうにか事なきを得たが、これはトラウマとなった。
その時以来、秘密基地からいきなり外に出ずに、設置した鏡で周辺に動くモノがいないか確認するようになったのだった。




