第2章 水竜の贈りし者のこと 1-1
ニニカは息を殺した。
大人三人でも抱えきれない程太く、大きな大樹の枝の上である。
生い茂った常緑樹の無数の葉が、小さな彼女の身体を完璧に包み隠しているため、地上から目視での発見は極めて困難だろう。
手にした弓に自作の矢をつがえて、ゆっくりと絞るように引いていく。
弦を引く手の甲を顔側に向けた独特のスタイルである。以前、弦を顔に近づけすぎてしまい、頬の一部を削り取る怪我をしてしまったことがある。その時から構え方が変わった。
引き絞られた矢が指し示す先を追っていけば、そこに四匹の森兎がいる。
この種の父親は子育てには参加しない。というよりも、繁殖期が終わると雌によって巣から追い出されてしまう。そのため「参加できない」が正しい言い回しとなるかもしれない。ちなみに子が成体になった場合も雄雌問わず追い払ってしまう習性がある。
故に身体が大きい一羽が母親で、残りは子兎であると分かる。
ニニカは当然のように母親に照準を合わせた。
的が大きいから狙いやすいし、仕留められれば姉と自分、二人分の夕食には充分である。
残される子兎が・・・、という考え方はしない。
物質的に満ちたりていたり、年齢を重ね思考が複雑になったりすればするほど、人は煩わしいことを考え始める。自分なりに勝手な善悪の基準を作って、してはいけないことを増やして自らを縛り付ける。
その点、ニニカは全く裕福でもなかったし、生きることに対して無駄な罪悪感や憐憫も持たなかった。
まだ九歳なのである。
難しいことは考えない。ちょっとした意地と食べるために狩りをする。それだけだ。
「女の子なんだから、もっとお淑やかにしないと・・・」
とは姉であるシータの口癖である。同年代の男児と取っ組み合いの喧嘩をした時も、七歳の誕生日にトロメスの城壁近くまで一人で「偵察」に出掛けたのがバレた時も、今のように魔の森に一人で出掛けた後だって言われてきた台詞だ。
いくら小言を言われても、ニニカは全く反省などしない。しかし決して鈍いという訳でもなかった。
姉の気持ちは充分理解している。二人きり生き残った姉妹だから心配で仕方ないのも、ちゃんと分かっている。
(いや、違うか。姉さんは誰にでも優しいから・・・。あたし以外の、ね)
シータは誰にでも分け隔てなく優しい。だから異性からばかりでなく同性からもモテる。いつも周りには人がいっぱいだ。
(おまけに美人だもんね。あたしと違って・・・)
ニニカはそう思っているが、実はそんなことはない。ニニカの周りだって、いつも子供たちが寄ってくる。中には淡い恋心を抱いて、もじもじしている男の子だって何人かいる。
照らし合わせると「鈍い訳ではない」とは記したが、やはり鈍感なのかもしれない。
ニニカは、まだ恋心なんて知らない。そんなモノに憧れなんてないのだから、後ろをついてくる男の子たちから向けられた熱い視線に気が付かないのも仕方ない。しかし客観的にみれば、姉と同様にしっかり人気者なのである。
容姿についても同じだ。
いつも泥や埃で汚れているため判別し辛いものの、顔立ちは端正と言えるだろう。
銀色に輝く髪を襟元でショートに切り揃えている。狩りや冒険の邪魔だからという理由で、自分でバッサリ切ってしまったのを、大いに嘆きながら姉が整えてくれたのがその髪型だ。長く伸ばさせようとする姉とのせめぎ合いはあるが、結局勝つのはニニカだった。伸びてきたら勝手に切ってしまうからだ。するとシータも仕方なく、毛先を整えてくれる。その繰り返しだ。
「そろそろ伸ばしなよ。邪魔なら結わえればいいんだけじゃない」
そんな言葉も右から左だ。
だけどシータのことは好きだ。狩りをする理由だって姉に美味しいモノを食べさせたいから、なのである。まあ、一番の理由は「面白い」からなのだが・・・。
ニニカは片眼をつぶって狙いを付けた。
ところが弓を引く手が震え始めてしまう。狙いを維持できない。
慌てて放った矢は、大きく逸れて地面に突き刺さった。森兎の親子が驚いて、茂みの中へ姿を消した。
「あー」
ニニカは声を出して落胆した。
狩りは好きだけど、あまり上手じゃない。
ただし気配の消し方は天性のモノがある。息を潜めてジッとしていると、獣たちがニニカに気付かずに姿を現す。そういう意味では、狩人の才能はあるのかもしれない。今はまだ、上手く仕留めきれないだけだ。
毎日弓の練習は欠かさないのに、なかなか上達しないのは、師匠がいない所為なのかもしれない。いくら訊いても、大人たちはニニカに狩猟のやり方を教えてくれないのだ。
だから罠の仕掛け方も知らないし、獲物の追い立て方も知らない。
(ケンは連れていくクセに・・・)
ニニカは大いに不満だった。
ケンは十五歳の誕生日をつい最近迎えた男の子だ。その日から大人たちは彼を一人前として扱い始め、狩りに連れて行くようになった。
どうせ大して役に立ってもいないクセに、里に帰ってくる時の得意顔に腹が立つ。
六つも年上だけど、頭の回転は鈍いし喧嘩をしたってニニカの方が強い。なのにあっちは狩猟メンバーでニニカは居残りだ。
だから勝手に一人で狩りに出ることにした。
ニニカは単純である。好きなことは誰に止められようが、とことんやる。その反面、嫌いなことは叱られたって絶対にやらない。
自分の気持ちに忠実なのだ。
危険な肉食獣や妖魔獣が跋扈する魔の森に一人で出掛けることだって禁止されているけど、ニニカは気にしないのだ。
高い木の枝から落ちてしまったり、大型の肉食獣と遭遇したり危険な目にあったこともある。でも結局五体満足でこうして生きてる。ひやひやしたけど、思い返せば楽しかった。
そんなことがあったのは、もちろん誰にも内緒だ。シータに知られたら監禁されてしまう。勿論、隙を見て抜け出すことなんて朝飯前だが、激怒する姉の相手をするのはちょっと面倒臭い。
「あーあ」
狩りの失敗にニニカは嘆息した。
(もう、秘密基地に戻ろっと)
危なげなく大樹から降りて、ニニカは勝手知ったる森の中を歩き始めた。




