第1章 アイゼニアの姫のこと 13-5
「止まって下さい。そのまま、できるだけ動かないで」
一本下の枝に立ったガウェインが緊迫した声で言った。その右手には、すでに手斧が握られている。
正直なところもう少し上に登っておきたかった。しかし、これ以上物音を立てるのは危険だと判断したのである。
アイサは震える手で幹にしがみついて、身体を固定する。何か悍ましいことが始まろうとしているのを感じる。身体の震えが止まらない。
「大丈夫。じっとしていて下さい」
ガウェインが囁いた。
アイサが上、ガウェインが四十センチほど下に立っている。二人は太い枝の上に乗ったまま、息を殺して気配を消した。
黒い煙が「ゆらゆら」と妖しく蠢いた。中から次々と萎びた腕が現れる。歪んだ大気の中から、頭が、身体が迫り出してくる。
樹の上で身を潜める二人は目を疑った。
死霊兵だ。暗闇の中で陽炎は死霊兵を生み出そうとしている。
アイサの背中に悪寒が走った。妖魔獣と対面した時でも、これほどの恐怖ではなかった。単体の脅威という意味では、妖獣の方が遥かに上だろう。だが、少なくとも、あれは生物だった。
目の前で続々と吐き出されているのは、自然の摂理に反したモノである。この世に存在してはならないモノである。
次から次へと死霊兵が生み出されていく。
この光景は、心の奥底にある自らも意識できない感情に嫌悪感を与えてくる。
地表に揺らめく黒煙は、やがて薄れて消えて行った。
夜の闇の中に見慣れた森の風景が戻ってきた。ただそこに数えきれないほどの死霊兵がいることを除いては・・・。
召喚された屍の兵士たちは、どれも完全武装している。全身を覆うプレートメイルや兜は、揃いのモノであったが、手にした武具はそれぞれ異なる。
両手持ちの槍を持つ者もいれば、ロングソードに盾を装備した個体もいる。メイスを担いだ者もいれば、弓を手にした個体もいる。
それぞれが生前得意にしていた武器を、死してなお携えているのだろう。
死霊兵たちは彫像のように佇んでいた。動く気配がない。
樹上の二人は固唾を飲んで見守っている事しかできなかった。そのまま五分が経ち十分が過ぎた頃、アイサが口を開いた。
「全く動きませんね」
ガウェインにしか聞こえないような小さな声である。
「このまま待ちますか?」
僅かに焦燥を含んだその声は、行動を起こすべきではないかと告げている。死霊兵が動かない内に下に降りて逃げる、もしくは相手の数を減らすなど積極的に動きたいということだ。
問われるまでもなく、既にガウェインは同じ質問を脳内で反芻していた。
「もう少し、待ってみましょう」
その度に導き出される答えがそれだった。闇に眼が慣れてくるとよく分かる。あまりにも相手の数が多すぎる。一体二体、倒したところで焼け石に水である。行動を起こした途端に動き出されてしまったら、逃げ切れる未来が見えない。
(ここは身を潜めるしかない)
(命を賭して戦う場所はここではない)
そういう判断である。
だが一方で、いづれは戦わねばならないだろうことも分かっていた。こんなモノがこんな場所にいる理由は、一つしかないからだ。
そこに葛藤がある。
普通に考えれば、ここは逃げの一手である。悩む余地もない。ただこの悍ましい兵士たちの狙いがティアナであることに疑いの余地はない。ならば必ず剣を交えることになる。その時に、少しでも有利に戦えるように立ち回らなければならない。
死霊兵は召喚されたその場所から全く動かない。今の内に、敵の数を減らしておくべきか?
不用意に攻撃すれば、こいつらを召喚した術者が、気づくかもしれない。それは、望ましくない。
そんな風に、何度も何度も考えて、考え抜いた結論が「待機」である。
まずはティアナ達と合流する。それを当面の目標に掲げた。
(殿下は必ず守り抜く!)
それは一命を掛けた強い誓いである。
(可能であれば、アイサ殿も・・・)
密かに願わずにはいられなかった。
一方のアイサは苛立っていた。
じっと待つというのは、どうも性に合わない。巧遅よりも拙速を尊ぶ。兎にも角にも常に行動していたいタイプなのである。
地上は死霊兵だらけだ。
不用意に行動を起こすことは得策ではないと理解はしている。だからイライラしながらも我慢しているのだ。
待つことには不満があるため、時間の流れがやけに遅く感じる。幹に捕まる腕が痺れたように重くなってきた。
それでも四、五十分は耐えた。
死霊兵に全く動きはない。召喚された時のままの姿勢で立ち尽くしている。
「ガウェイン卿・・・」
アイサは低く呼びかけた。思ったより口の中が乾燥していたようだ。しゃがれた声が出た。
ガウェインが下から見上げる。
「このままでは、埒があきません。降りて闘いましょう」
知らず言葉に力がこもる。
「落ち着いてください。声のトーンを落として」
ガウェインが宥めようと手を振ったその時である。
「あっ・・・」
驚いて声を上げたアイサの視線を追って地表に眼を落す。
死霊兵が顔を上げ、首を回して振り返るのが見えた。目の届く範囲にいる死霊兵たちは、全て同じ方向に視線を向けている。
そして一斉に歩き始めた。
二人が潜む樹の下も次から次へと死霊兵が通り過ぎていく。
(何体いるんだ?)
予想していたよりも遥かに多い。どう考えても危険な状況だ。
しばらくすると周囲に静寂が訪れた。周辺を見回す。どうやら死霊兵は残っていないようだ。
「後を追いましょう」
一声かけるとガウェインは地面へと飛び降りる。地に落ちた枯れ枝が折れて乾いた音を立てる。
斧を片手に周囲の様子を覗っていると、アイサが軽快な身のこなしで付いてきた。
二人は眼を合わせ頷き合うと、死霊兵が消えた藪に向かって歩き出した。




