第1章 アイゼニアの姫のこと 13-3
まずは偵察に出る前の野営地に戻ることにした。
アイサが前を行く。
ガウェインは後ろから付いていくのだが、彼には元々、方向音痴の気があった。市街地でも方向を見失って道に迷うことが多々ある。目印のない森の中に入ると、それが増幅されてしまう。東も西も分からなくなる。どの方向に進めば戻れるのか、全く見当もつかない。
実は今もアイサの後に付いて行きながら考えている。
(そっちから来たんだったかな?あっちじゃなかったか?)
実は三十年の人生の中で何度か「迷子になった」と認知したことがある。
子供の頃ばかりでなく成人してからも、である。
無事に帰れるのかと、とても不安になったものだ。ただ大概は誰かと一緒にいる時だったので、その気持ちを紛らわせることはできた。後になって考えてみると、どの時も彼の同行者たちは、焦燥を感じていた様子はなかったように思う。
仲間達は軽い調子で会話をしながら、どんどん歩いていく。(そっちじゃない!)と思いながらも言い出せず、皆のリードに合わせて歩いていたら、いつの間にか目的地に着いていた。
何度か似たような体験を重ねるうちに、方向に関しては、全面的に他者に委ねることを学んだ。道に迷ったと感じた時は、同行者に任せて口は出さない。
ましてや今回は森の専門家の先導である。安心していればいい。その代わり周囲の警戒は怠らない。
ちなみにプチ迷子になっていたことは、誰にも口外したことはない。
先を行くアイサの歩調に迷いはなかった。
ガウェインは黙って付いていく。かなり左腕が痛むが、そんなことを言っている場合ではない。我慢していると次第に油汗が浮かんできた。自分でも血の気が引いているのが分かる。
足取りが乱れ遅れがちになる。
アイサが振り返った。
少し立ち止まって様子を覗っていたが、やがてガウェインの許に歩み寄ってきた。
「少し休みましょう」
「いや、まだ大丈夫です」
「いいえ」
アイサの声色に反論を許さない厳しさが混じる。
「休憩します」
アイサは背負った荷袋を下ろし、中から茶色い紐状のモノを取り出した。
それを見た途端にガウェインの表情が曇る。嫌な記憶が蘇ったからである。(あの薬草だ!)と一目で分かった。
テレの根である。
腰の短剣で半分に切った根を差し出してくる。
「噛んでください」
思わず躊躇するガウェインに、アイサは残りの半分を自らの口に運びながら言った。
テレの根は「万能薬」と言っても良いほどの薬効を誇る。解熱、解毒、鎮痛、整腸など効能を上げれば枚挙に暇がない。多年草でどのような地域の土壌にも適応しやすく、大陸全土に自生する。と言えば、とても重宝されそうなものだが、途轍もなく苦いという欠点があるため、医局では、あまり処方されることはないのである。「苦い」と一口に言っても伝わりづらい部分があるが、それはもう想像を絶するくらいに「苦い」のである。
樹液が空気に触れると効果がなくなってしまうため、直接かじるしかない。つまり苦味を緩和することもできないのだ。
どんなに優れた薬効があっても、「二度と口にしたくない」と誰しもが思うに違いない。だからガウェインが躊躇ったからと言って、彼を臆病者だと誹ることなど誰にもできないだろう。
そんな考えが頭の中をよぎったが、残りの半分をアイサが目の前で噛んでいる。結局、腹を括るしかなくなってしまった。
ガウェインの眼から見て、アイサ自身は、そこまでの重症ではないだろうと思う。逃げ道を塞ぐため計算しての行動なのか。それとも一緒に苦痛に耐えようという姿勢なのか。贔屓目も入って(何れにしても賢く優しい女性だな)と思う。
諦めて口にすることにした。
口の中に吐き出したくなるほど不愉快な苦味が広がる。(一時の我慢だ!)(終わりは必ず来る!)そんな風に自分を励ましながら噛み続けた。
太い樹木に背中を預けながら咀嚼を続けていると、心なしか身体が楽になってくる。
唐突にアイサが、「はっ」として後方に目を向けた。
「物音を立てないで」
囁くように言う。
姿勢を低くして、油断なく左右に眼を走らせながら森の様子を覗う。
「夕食を取ってきます。ここで待っていて下さい」
視線を向けないまま、手を上げてガウェインの動きを制す。何か生き物の気配を察知したようだ。
右側の木立に向かって二、三歩足を踏み出して、ふと思い出したかのように振り向いた。
「苦味がなくなったら吐き出していいですよ」
アイサが悪戯っぽく微笑む。その顔を見てガウェインの胸の中で一つ「どきん」と大きな鼓動がした。
(こんな時に、俺は何を・・・)
アイサの姿が木の陰に消えてゆくのを見守って苦笑する。今は任務に集中しなくてはならない。
(だが、二人とも生きて戻れた時は・・・)
咀嚼を続けながら天を仰いで、ガウェインは優し気に微笑んだ。
アイサは、すぐに戻ってきた。
ガウェインの許を離れてから幾らも時が経っていないのに、手には二匹の山鼠を下げている。小動物の首には、細い紐が巻き付いたままになっていた。
両端に重りを付けたテグスを使って仕留めたのであろう。
右手の灌木に消えたかと思ったが、戻ってきたのは正面からだった。気配を殺して後方に回り込み、一瞬の内に仕留めたに違いない。見事な狩猟の腕前である。
「気分はどうですか?」
アイサが、ガウェインの顔を覗き込む。少し血の気が戻ってきている。
「かなり良くなってきました」
その言葉に嘘や誇張はないと判断した。
「では、野営地まで歩きましょう。ゆっくり行きますから、辛くなったらすぐに声を掛けて下さい」
この辺りは木が密集しすぎていて、火を熾して料理することなどできない。もう少し開けた土地が必要だ。
「あっ。もう吐き出してもいいですよ」
呆けたように咀嚼を続けるガウェインの見て、思わずアイサも笑顔になる。
「あ・・・」
テレの根を噛んでいる最中には、ありえないことだ。しかしガウェインは他のことに気を取られて、口腔に残る苦味のことなど、すっかり忘れていたのである。
指摘されると、苦味が戻ってきた。
口元を手で覆うと、慌てて吐き出したのだった。




