第1章 アイゼニアの姫のこと 12-7
「そろそろ切れる頃ね」
ティアナが小さく呟く。
たちまちの内に橋の上を運ばれてティアナと合流したウォルフは、二人に手短に別れた後の状況を説明した。それを受けての言葉である。
ゼノンに付与された浄化魔法の効果が終わる頃合いだ、という意味だ。
「隊長は安心して先に逃げろと言っていた。待ち伏せがあったということは、敵にこの場所がバレているということだ。ここに留まるべきじゃない」
そう言ってウォルフは、状況説明を締めくくる。
「入口に戻って、なるべく早く洞窟を出ましょう!」
ティアナが反論しようとするのを遮って、ナッシュも同意した。
「兄さん、走れるか?」
そう問われて無言で頷いて返答に代えた。三人の中では一番運動不足のウォルフのペースに合わせることになる。
「では先頭を頼んでいいか?」
「分かった。行こう!」
入口に向かってウォルフが走り出す。
「さあ、姫!」
強く促されて、ティアナも後に続いた。後ろ髪を引かれるように何度か振り返っていたが、やがて諦めて後ろを見るのをやめた。
三人は一心不乱に走り続ける。
不安定な足場に何度か足を取られるような場面はあったものの、意外なことにウォルフは一度も休むことなく、入り口付近まで三十分以上の時間を走り通した。
「ちょっと止まってくれ!」
洞窟が狭くなり窮屈になってきたナッシュが待ったを掛ける。それを受けてウォルフが足を止める。カンテラの灯りでは分かりづらいが、顔を真っ赤にして激しい呼吸を繰り返している。
肩で息をする兄とは違い、ナッシュの呼吸にはまだまだ余裕がある。だが身体が閊えて思うように進めないのだ。
入口までは、あと百メートル程だろう。
「ここからはオレが最初に行くよ。兄さんは一番後ろに下がってくれ」
ウォルフには、言葉で返答する余裕がない。「ぜいぜい」と激しく息を切らせながら、何度も頷いた。足を止めた途端、滝のように大量の汗が全身から吹き出し始めた。
「少し休んでから行きましょう」
その様子を見たティアナが提案する。彼女自身は多少呼吸は荒くなっているものの、本人の体感的には「準備運動」で片付けられる程度の「軽いアップ」をこなした感じである。むしろ動きは良くなっているはずだ。
「では、ここで待っていて下さい。先に行って外の様子を見てきます」
ナッシュが休憩に同意する。
無理をしても良い結果にはつながらない。外に敵が待ち受けていたら、今のウォルフでは足手纏いとなりかねない。
「気を付けて」
気遣うティアナに小さく一礼して、ナッシュは先行し始めた。頭を屈め、大きな身体を右に左に捩りながら、狭い洞穴を抜けていく。
たちまち、その姿は見えなくなった。手にしたカンテラの灯りだけが微かに届いている。
中腰になって膝に手を置いて身体を支えながら、荒い呼吸を繰り返していたウォルフは、意図して長く息を吐いた。
心臓は弾けるかと危惧するほどの鼓動を奏でているが、あえてゆっくり吸って、長く吐く。それを繰り返すことで、早く動悸を納めようとしているのだ。
深呼吸を数回する内に、少し回復してきた。
「あとを・・・追いましょう・・・」
依然として心臓は激しく脈打っているものの、呼吸は整ってきている。
「もう大丈夫なの?」
「ええ」
ウォルフは無理に微笑んだ。
長く休憩してしまえば、ここまで走ってきた意味もない。こんな状況だ。最悪を想定して動かなくてはならない。ならばナッシュとも別行動を取るべきではない。
「じゃあ、行きましょう」
ティアナは入口に向かって歩き出した。その足元を後ろからウォルフが照らす。
先導するティアナは意識して、ゆったりと歩を進めていたが、すぐに出口に辿り着いた。
すでにナッシュの姿はない。
ティアナは後ろを振り返りウォルフを見た。無言の頷きが返ってくる。
「ナッシュ」
小声で外にいるはずの男の名を呼んでみる。
すぐに外に動きがあった。向こうから男が顔を覗かせる。カンテラの灯りが見慣れた男の端正な顔を照らし出した。ナッシュである。
「早かったですね。今のところ、異常はなさそうです。引き上げますから腕をつかんで下さい」
洞窟側から見ると出口は一メートル半ほど高くなっていて、よじ登らなければ出られない。
顔が消え、代わりに太い腕が降りてきた。
「ありがとう」
ティアナが腕を取る。
「しっかり捕まって下さい」
腕は軽々とティアナの身体を外に運び出した。
「兄さんも・・・」
「待ってくれ」
ウォルフは、カンテラの火を消した。ネジのように回すと、カンテラ上部の筒が外れる。それを直接火に被せて密閉すると、空気が遮断され鎮火する仕組みだ。
まだ熱が残るカンテラを腰にぶら下げてから、差し延べられた腕に手を伸ばした。
仲の良い兄弟だが、こんな風に弟の身体に触れることなど何年もなかった。子供の頃以来だろうか?あの頃は年長のウォルフが支える役だった。
何故だか、少し気恥しい。
それも束の間、「あっ」という間に身体が浮き上がり、気づけば洞窟の外にいた。
「すまん」
一人で勝手に気まずさを感じて、それを隠すように短く礼を言った。
外は既に夜の闇に包まれている。
「これからどうする?」
ナッシュが訊く。ウォルフは少し考えた。
「うん・・・。この近くにレジスタンスのアジトがある。一旦そこに身を隠そう」
それは師であるユリウス・アークレイが、最後の時を過ごした場所である。意図せずその光景が蘇り、ウォルフは強く頭を振った。胸に湧いてきた郷愁にも似た感情を追い払うためである。
その時だった。
不自然に低木が揺れる。葉が擦り合わされる「かさかさ」という音に反応して三人の視線が一点に集中する。
緊張が走った。
灌木の先の闇を見通そうと目を凝らしていると、別の場所でも茂みが鳴る。更に離れた位置からも、それとはまた別の方向からも次々に枝葉が揺れて音を立て始めた。
もはや音源を特定する必要などない。
三人は完全に囲まれているのだ。
やがて夜の闇が死霊兵を吐き出す。次から次へと。二十体や三十体どころではない。周囲は百体を優に超える死霊兵の群れに埋め尽くされていた。




