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無能を演じる必要悪 〜正義の勇者が壊した世界を、私はまた黙って直す〜  作者: なち
第1部 裏切りと覚醒

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第9話 狼煙

 それは、あまりにも唐突に始まった。

 昼下がりの穏やかな学園。昼休みのざわめき。どこにでもある平和な一日のはずだった。その空気を切り裂くように、けたたましい警報が鳴り響いた。だが今度は、あの『プロトコル・ザクロ』ではなかった。


 『――全生徒に告ぐ。中央管理棟が武装集団に占拠された。繰り返す。中央管理棟が――』


 放送は、そこでぶつりと途切れた。何か重いものが倒れるような音を、最後に残して。


 (颯太! これ、まさか)

 (“解放の輪”だ!間違いない、あいつらがついに、本格的に動き出したんだ!)


 窓の外を見れば、中央管理棟の方向から、黒い煙が幾筋も立ち上っていた。前回のような、遠くの人気のない訓練区ではない。学園の中枢。心臓部。生徒たちがいつも行き交う、すぐそばだった。

 悲鳴とともに、生徒たちが逃げ惑う。教師たちが血相を変えて誘導に走る。廊下はたちまち、押し合いへし合いの人の波で溢れ返った。あっという間に、学園は混乱の坩堝(るつぼ)と化した。誰かが転び、誰かが踏まれかけ、あちこちで叫び声が上がる。双葉は人波に流されそうになりながら、必死で壁際に張りついた。一度、後ろから押されてよろけ、あわや将棋倒しに巻き込まれかけたが、近くの上級生が咄嗟に腕を引いてくれて、なんとか転ばずに済んだ。


 (双葉、無事!?感覚共有、めまいがひどい……!)

 (大丈夫、なんとか。颯太こそ、そっちは!)

 (僕は男子寮側だから、まだましだけど……見えるんだ。中央管理棟が)


 そして、その混乱の中心に――陸がいた。

 颯太の視界が、それを捉えていた。中央管理棟の正面。黒い戦闘服をまとった『解放の輪』の集団。その先頭に、見慣れた背格好の男が一人、立っていた。

 迅雷陸。もう、Cクラスのあの制服ではない。組織の黒い装束を身にまとって。


 「聞け、能力者たち!」


 陸の声が、奪い取られた放送設備を通して拡声され、学園中に響き渡った。かつて教室の隅で燻り、震えていたあの男とは、まるで別人のようだった。


 「この学園は、俺たちを閉じ込める“檻”だ! 俺たちを勝手に格付けし、下等だと嘲笑い、飼い殺しにする場所だ! ……だが、もう終わりにする! “解放の輪”が、俺たちに本当の自由をくれるんだ! 俺と来い! 自分の価値を、この手で証明したい奴は、俺と来い!」


 人波のなかで、その演説に、足を止める生徒がちらほらといた。逃げるのも忘れて、食い入るように陸を見上げる者。小さく頷く者。なかには、ふらりと管理棟のほうへ歩き出そうとする者さえいた。あのビラに揺れていた心が、この叫びに引き寄せられていく。双葉は、それが恐ろしかった。陸の渇きが、いま、同じ渇きを抱えた者たちに、伝染していく。一人の弱さが、大勢の弱さを、呼び覚ましていく。


 (……陸くん)


 双葉は、逃げ惑う人波のなかで、独り立ち尽くしていた。あの言葉。あの、拡声された精一杯の叫び。――痛々しかった。心の底から。

 彼が本当に欲しかったのは、自由なんかじゃない。誰かを救う正義でもない。ただ、「おまえはすごい」と、「おまえには価値がある」と。たった一人でいい、誰かにそう言ってほしかっただけなのに。その根っこにある小さな渇きを、悪意が都合よく利用して、彼をあんな高い場所に、独りぼっちで立たせている。しかも今、彼は、自分と同じ渇きを持つ後輩たちまで、道連れにしようとしている。それが、いっそう哀しかった。


 (颯太、どこにいるの! 危ないよ、早く逃げて!)

 (双葉こそ、早く! ……あ、待って)


 颯太の思考が、はた、と止まった。


 (……双葉。来た)


 逃げ惑う人波が――割れた。

 混乱と喧騒のまっただ中を、ただ一人。まるで川の流れを逆に遡る魚のように、静かに歩いていく小さな影があった。誰も、その少女には気づかない。パニックに陥った人々の隙間を縫うように、当たり前のように、まっすぐに。黒煙の上がる中央管理棟――陸のいる、その場所へと。


 灰原葵だった。そしてその斜め後ろに、影のように寄り添って、神楽詩織が続いている。詩織の横顔には、いつもの陶酔も、崇拝も、なかった。ただ、研ぎ澄まされた刃のような、静かな戦意だけがあった。

 双葉は駆け寄ろうとした。でも足が動かなかった。声も出なかった。ただ、遠ざかっていくその小さな背中を、見つめることしかできなかった。すれ違いざま、ほんの一瞬。葵が、双葉のほうへ、視線を送った気がした。「あとは任せて」とでも言うように。あるいは、「見ていて」とでも。

 葵の手には――いつのまにか、あの漆黒の狐面が握られていた。


 (……行くんだ、陸くんを迎えに。ううん、たぶんそれだけじゃない。あの組織ごと、何もかも、全部)


 管理棟のほうから、地鳴りのような衝撃が伝わってきた。何かが爆ぜる音。悲鳴。組織の構成員たちが、逃げ遅れた生徒や教師を、次々と拘束していくのが、颯太の視界に映る。抵抗した教師が、能力で薙ぎ払われ、壁に叩きつけられた。もう、誰にも止められない。学園の秩序が、音を立てて崩れていく。


 (颯太……先生たちも、やられてる。あんなに強かったはずの人たちが)

 (うん。……組織のやつら、薬で強化されてるんだ。陸と、同じように。まともじゃない力になってる)


 その光景を見て、双葉は、ようやく、腑に落ちた。なぜ、あの気弱な葵が、たった一人で、あの場所へ向かったのか。教師でも、学園の警備でも、どうにもならない。だから、あの子が行くしかない。ずっと、そうやって、あの子は、誰にも手に負えないものを、一人で引き受けてきたのだ。


  双葉は、逃げる人波に逆らって、一歩、踏み出した。逃げなきゃいけない。頭では分かっている。でも、足は、葵の背中を追おうとしていた。あの子が、何を背負い、何をするのか。この目で、見届けなければいけない気がした。それが、あの日「観察者になる」と決めた、自分たちの役目だから。


 「双葉ちゃん! 何やってるの、危ないよ!」


 クラスメイトの声が、双葉を呼んだ。避難する生徒の一人が、立ち尽くす双葉の腕を掴もうとする。双葉は、その手を、そっと振り払った。


 「……ごめん。私、行かなきゃ」

 「行くって、どこに!? あっちは、危険なんだよ!」


 双葉は、答えなかった。答えられなかった。“同室の子が、世界を消せる化け物で、それを見届けるのが自分たちの役目だから”――そんなこと、言えるはずがない。ただ、双葉は、黒煙の向こうへ消えた小さな背中の残像を、目に焼きつけていた。あの子は、たった一人で、あそこへ向かった。詩織がいるとはいえ、その心は、きっと、いつも独りぼっちだ。


 だったら、せめて。誰か一人くらい、あの子が何を背負っているのかを、知っていてもいいはずだ。見ていてあげても、いいはずだ。それが、たとえ、何の力にもならない、ただの“観察”でしかなくても。

 狐面の少女の背中が、黒煙の向こう側へと、溶けるように消えていく。


 嵐が、来る。

 双子はまだ知らない。この日、自分たちが目撃することになるものが――これまで震えながら見てきた、どんな“現象”をもはるかに超える、理不尽の極みであることを。そして、その理不尽の向こうに、たった一人で立ち続ける少女の、本当の姿を。


お読みいただきありがとうございました。

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次話は明日21時ごろ更新予定です。

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