第10話 狐面、再び
黒煙は、まだ中央管理棟の上を、ゆっくりと舐めていた。
双葉は、逃げ惑う人波の最後尾に取り残されるようにして、その場に立ち尽くしていた。避難しろと叫ぶ教師の声も、遠くの悲鳴も、どこか薄い膜の向こうから聞こえてくるようだった。頭のなかでは、颯太の視界が忙しなく揺れ続けている。
(双葉、そこ動かないで! 僕、いま男子寮出た。そっち行くから!)
(颯太!? 駄目だよ、危ないってば、戻って──)
(無理だよ。……双葉だって、逃げてないくせに)
言い返せなかった。二つの心臓が、糸の両端で、同じ速さで鳴っている。逃げなきゃいけない。頭では分かっている。それでも足は、黒煙のほうへ、ほんの少しずつ、吸い寄せられていく。
どれくらい経っただろう。人波を掻き分けて、見慣れた顔が飛び込んできた。息を切らした颯太だった。生身の弟の姿を、こんなに心強いと思ったことは、なかった。双葉は思わず、その腕を掴む。
「颯太……!」
「双葉。……行こう。あの子を、追いかけよう」
言葉にしなくても、分かっていた。二人で頷き合い、逃げる流れに逆らって、駆け出す。あの、狐面を握った小さな背中が消えていった方角へ。
途中、黒い装束の男が一人、巡回しているのに出くわした。双子は、とっさに、空き教室へ転がり込む。ドアの磨りガラス越しに、男の影が、ゆっくりと横切っていくのを、息を殺して、やり過ごした。心臓が、口から飛び出しそうだった。
(……颯太。こんなの、絶対無茶だよ。私たち、戦う力なんて何もないのに)
(分かってる。……でも、双葉。僕たちにしか、できないこともあるだろ。二人で二箇所を同時に見る。誰にも気づかれずに全部を見届ける。……それが、僕たちの力だよ)
その言葉に、双葉は、こくりと、頷いた。怖かった。でも、颯太の言うとおりだった。剥がしたビラ、一枚。見過ごした事故、一つ。自分たちは、無力な観察者だと、ずっと思っていた。それでも、今、この目だけは、確かに、ここにある。
中央管理棟の一階ロビーは、ひどい有様だった。
黒い戦闘服の男たちが、逃げ遅れた生徒や教師を、壁際に膝をつかせて拘束している。柱は焦げ、床には割れたガラスが散っていた。双子は、崩れた受付カウンターの陰に、二人そろって身を潜めた。息を殺し、格子の隙間から、その光景を覗く。
その、ロビーの中央に──葵と、詩織が立っていた。
男たちが、いっせいに気づいた。銃口が向く。怒号が飛ぶ。
「動くな! ガキが、どこから入って──」
最後まで、言い終わらなかった。
双葉には、何が起きたのか、また、分からなかった。ただ、男たちの手から、いっせいに武器が滑り落ちた。かちゃかちゃと、金属が床を打つ、間の抜けた音だけが響く。次の瞬間、彼らは糸の切れた操り人形のように、その場にくずおれた。息はある。ただ、眠るように、動かなくなっただけだった。
拘束されていた生徒たちが、ぱらぱらと、解放される。誰も、何が起きたのか、分かっていない。ぽかんとした顔で、倒れた男たちと、そこに立つ小柄な少女を、交互に見ている。
解放された生徒のなかに、双葉は、見知った顔を見つけた。同じ委員会だった、あの、大人しい男子。以前、『解放の輪』に「やっと居場所が見つかった」と、澄んだ目で笑っていた、あの子だ。彼は今、震えながら、床に、へたり込んでいた。憧れた「解放」のその先にあったものを──理想がこんな暴力と、恐怖で、できていたのだと、目の当たりにして。
葵は、それを、一瞥もしなかった。ただ、静かに、奥の階段のほうへ、視線を投げていた。まるで、ここはもう用済みだとでも、言うように。
(……颯太。今の、葵ちゃん、指も、動かしてなかった)
(うん。……なんか、いつもより、あっさりしてた気が、するんだ)
双葉は、その違和感を、うまく言葉にできなかった。あの廃倉庫の夜、葵は男たちを壁に縫い留め、アンプルの中身を「存在ごと」拭い去った。あれに比べて、いまの葵は──もっと、加減をしているように見えた。まるで、本気を出すのを、どこかで、慎重に、避けているみたいに。
◆
葵side
(──また、か)
狐面の内側で、私は小さく息を吐く。
銃を落としただけ。眠らせただけ。それで十分だ。この階の男たちは、末端のただの手足。ここで彼らを消したところで、意味はない。頭を潰さなければ手足はいくらでも生え変わる。……昔の私なら、そんなことも分からずに、目の前の悪を根こそぎ焼き払っていた。全部消せば、世界はきれいになると本気で信じていた。
消えた「悪」の数だけ消えなかった「誰か」が泣いた。どんな悪人にも、帰りを待つ者がいた。守るべき者を間違えて消したこともあった。……あの頃の私は、自分を正義だと思っていた。今の私は、自分をただの必要悪だと知っている。どちらがマシかなんてもう分からないけれど。
視界の端に、二つの小さな影がよぎった。受付の陰。小鳥遊の双子。……ついて、きたのか。逃げろとは言わなかったな。言えば逆に来るような子たちだ。それくらいは、二ヶ月も同じ部屋にいれば分かる。
止めても、無駄だろう。なら、せめて──巻き込まないように。
私は狐面の奥で目を細めた。この学園の下にもう一つの学園がある。彼らの本当の巣は、旧校舎のさらに下だ。そこを断たなければ、今日という日は、終わらない。
◆
「詩織。上は、済んだ。……下へ、行こう」
「はい、葵様。露払いは、わたくしが」
葵と詩織がロビーの奥へ迷いなく歩いていく。双子は顔を見合わせじゅうぶんな距離を取ってその後を追った。
二人が向かったのは、あの旧校舎だった。陸が何度も男たちと接触していた場所。だが、葵は一階の教室には目もくれず突き当たりの施錠されたはずの資料室の扉をただ見た。
かちり、と。錠の落ちる音がした。誰も触れていないのに。
扉の奥は下りの階段だった。埃をかぶった旧校舎のそのさらに地下へとコンクリートの喉が暗く続いている。冷たい…饐えた空気が下から這い上がってきた。
(……こんなの、あったの)
双葉の背筋が、ぞっと粟立つ。
(学園の下に、こんな場所が)
(知ってたんだ。葵ちゃんは最初から。どこに何があるか)
狐面の少女は、一度だけ、ちらりと後ろを振り返った。暗がりに潜む双子のほうを、確かに見た気がした。そして、何も言わず、階段を、下りていく。詩織が、影のように続く。
双子は、しばらく、動けなかった。あの闇の底に、何があるのか。ついていけば、たぶん、二度と「知らなかった頃」には、戻れない。それでも──
(……行こう、颯太)
(うん。……ここまで来たんだ。最後まで、見届けよう)
二つの手が、暗がりのなかで、そっと繋がれた。双子は息を整え、地の底へと続く階段へ、一歩を踏み出した。冷たいコンクリートの匂いが鼻の奥をつんと刺した。
お読みいただきありがとうございました。
ここから、物語は少しずつ動きはじめます。次話も明日21時ごろ更新予定です。




