第8話 静かな決意
打ち明けるべきか。
黙っているべきか。
双子は、まる一日、迷い続けた。
授業も上の空だった。感覚共有で繋がっているぶん、迷いも二倍になって、二人のあいだを行ったり来たりする。伝えれば陸は消えるかもしれない。黙っていれば陸は使い潰される。どちらを選んでも、誰かを裏切る気がした。板書を写す手が止まり、気づけばノートの余白に、同じ渦巻きを何度も描いていた。颯太のノートにも、同じ渦が描かれているのが、感覚共有で分かった。
昼休みも、二人はほとんど食べなかった。向かい合って座っても、口には出さず、頭のなかだけで、堂々巡りの相談を続けた。
(ねえ、もし逆だったら)
双葉が言った。
(もし私たちのどっちかが、あんなふうに悪いほうに行きかけてたら。どうする?)
(……止める。絶対に。どんな手を使っても)
颯太は即答した。
(消されるかもしれなくても?)
(……それでも、放っておくよりは、ましだよ。放っておいて、二度と会えなくなるより)
その答えが、双葉の背中を押した。
結局、二人を動かしたのは、理屈ではなかった。
(……あいつ、最後に僕に「いいよな」って言ったんだ)
颯太が、ぽつりと言った。
(あれ、たぶん、助けてほしかったんだよ。口が裂けても言えないだけで)
(……うん。私も、同じ気持ち)
きっと、あの子なら。日常の小さな事故を、誰にも気づかれずそっと消していた、あの子なら。ただ機械のように“処理”するだけじゃない、別の道を選んでくれるかもしれない。そんな根拠のない期待が、双葉の心の片隅にあった。それに賭けるしかなかった。
放課後の、誰もいない教室。窓から差し込む西日が、机の列を長い影で区切っていた。双葉は意を決して、一番後ろの隅の席に座る少女に声をかけた。声が、少し震えた。
「あのね、葵ちゃん。……陸くんのこと、なんだけど」
葵はノートから顔を上げた。おどおどとした、いつもの表情で。
「陸くん、どうかしたんですか……?」
と、こてん、と小首をかしげてみせる。その仕草のあまりの“普通さ”に、双葉は一瞬たじろいだ。本当に、この子でいいのだろうか。でも、もう後には引けない。
双葉はぐっと息を吸い込んで、告げた。陸が『解放の輪』に加わってしまったこと。旧校舎で、あの上級生と何度も接触していたこと。そして、陸が組織に葵の“情報”を流そうとしているらしいこと。話すあいだ、双葉の膝の上で、握った手のひらが、じっとりと汗ばんでいた。
話しているあいだ、双葉はずっと葵の顔を見つめていた。その表情がどう変わるのかを、恐れながら確かめるように。
だが、葵は驚かなかった。
ほんの一瞬。おどおどとした気弱な仮面の、その下から。あの、廃倉庫で見た冷たく凪いだ“静けさ”が、すっと覗いた。「ああ、やっぱり」とでも言うように。まるで、双葉が話すよりずっと前から、何もかも知っていた、とでも。けれどそれは、瞬きひとつぶんのことだった。
「……教えてくれて、ありがとう。双葉さん」
葵は静かに言った。もう、いつもの少し頼りない声に戻っていた。けれどその言葉の芯には、これまで聞いたことのない、確かな重みがあった。
「陸くんのことは、私がなんとかします。……大丈夫。悪いようにはしないから」
「葵ちゃん、あの……っ」
双葉は思わず身を乗り出していた。訊きたかった。喉まで言葉が出かかっていた。――あなたは陸くんをどうするつもりなの。まさか、“消す”つもりじゃないよね、と。でもその問いは、どうしても言葉にならなかった。答えを聞くのが、怖かった。
かわりに、葵はふっと笑った。それは、あの屋上で双葉が盗み聞いてしまった“素の声”によく似た、ひどく疲れた、けれどどこまでも優しい笑みだった。
「双葉さん。……颯太くんも。あなたたちは、本当に優しいね」
「え……」
「怖いのに。関わらないほうがずっと楽なのに。それでも、陸くんを見捨てられなかった。……そういうのを、私はすごいことだと思うよ。本当に」
双葉は、何も言えなかった。その言葉には、皮肉もお世辞もなかった。ただ心の底からそう思っている、という響きだけがあった。まるで――自分にはその“優しさ”を選ぶことが、許されなかった、とでも言うように。その一言に、双葉は、葵が背負っている何かの重さを、ほんの少しだけ、覗いた気がした。
葵はノートを閉じ、静かに立ち上がった。窓の外はもう、赤い夕暮れに染まっている。その細い背中を、双葉はただ見送った。
葵が教室を出ていったあと、双子は、しばらく口をきけなかった。感覚共有の糸の上を、名前のつかない感情だけが、行ったり来たりしていた。
(……ねえ、颯太。私たち、正しかったのかな)
双葉が、ようやく思考を送った。
(葵ちゃんに、話しちゃって)
(分かんない)
(でも、もう、賽は投げられたよ。あとは、葵ちゃんを、信じるしかない)
(信じる、か)
双葉は、窓の外の夕暮れを見上げた。
(私たち、あの子のこと、何も知らないのにね。名前と、能力の“表向き”と……あと、とんでもなく怖い、ってことしか)
(……でも、さっきの葵ちゃんの「優しいね」って言葉。あれ、嘘じゃなかった気がするんだ。あの子、たぶん、ちゃんと、僕たちのことを見てる。だから、僕は、信じてみたい)
双葉は、目を閉じた。信じたい。心から、そう思った。あの、屋上で聞いた、疲れた優しい声の主を。日常の事故を、誰にも気づかれず消していた、あの背中を。
その夜、双葉はまた、屋上の気配を感じた。葵と、詩織。今度は風のせいか、言葉はまるで聞こえなかった。ただ、二つの影が長いあいだ何かを話し込んでいた。そして話が終わると、詩織が葵に向かって、深く、深く頭を垂れるのが見えた。
それは、いつもの陶酔した崇拝のお辞儀とは違った。もっと厳かで、もっと覚悟に満ちた。まるで、これからたった一人で戦へ向かう主君を、臣下が精一杯の誇りを込めて送り出すような。詩織のような強者が、あそこまで頭を下げる相手。葵とは、いったい何者なのか。その問いは、もう、双葉のなかで、恐怖よりも、別の何かに変わり始めていた。
その晩、双子は、なかなか眠れなかった。感覚共有の糸の上で、二人は、とりとめのない思考を交わし続けた。明日は、いつもどおりの朝が来るのだろうか。
それとも――。答えは、誰にも分からなかった。ただ、確かなことが、ひとつだけあった。自分たちは、もう、後戻りできない場所に立っている。知らなかった頃には、二度と、戻れない。
(ねえ、颯太。私たち、これから、どうなるのかな)
(分かんない。……でも、二人一緒だよ。それだけは、変わらない)
その言葉に、双葉は、少しだけ、心が軽くなるのを感じた。どんな嵐が来ても、隣に――正確には、糸の向こうに――弟がいる。それだけが、双葉の、たった一つの、支えだった。
嵐は、もうすぐそこまで来ている。双葉には、それがはっきりと分かった。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




