第7話 裏切り
その日の夜
陸は、めずらしく颯太に話しかけてきた。
消灯前の暗い部屋で、天井を見上げたまま、ぽつりと。
「なあ、小鳥遊。……お前らって、双子で、いつも繋がってるんだよな。感覚共有だっけ」
「……う、うん」
颯太は面食らいながら答えた。陸が自分の能力に興味を示したことなど、一度もなかったからだ。むしろ「感覚共有しか能がない」と、さんざん馬鹿にしてきた相手だった。
「いいよな、それ。……一人ぼっちじゃなくて」
それきり、陸は黙った。颯太は、何と返せばいいのか分からなかった。あの、いつも威張り散らしていた男の口から出た言葉とは、思えなかった。まるで、遠くへ行く前に、荷物をひとつ、そっと置いていくような響きだった。何か言わなきゃ、と思っているうちに、陸の寝息が聞こえてきて
――いや、寝息のふりだと、颯太には分かった。陸は、眠ってなどいなかった。ただ、これ以上、話したくなかったのだ。
翌朝、陸は、いつもより早く部屋を出ていた。それ自体は、走り込みのためだと思えば、おかしなことではなかった。だが颯太は、机の引き出しが、わずかに開いているのに気づいた。中を覗くと――あの、ぼろぼろの陸上競技の記録ノートが、一冊残らず、消えていた。何年ぶんもの努力が詰まった、あのノートたちが。持っていったのか、捨てたのか。颯太には分からなかった。ただ、その空っぽの引き出しが、なぜか、とてつもなく寒々しく見えた。まるで、陸という人間が、この部屋から少しずつ、消えていく前触れのように。
その意味を颯太が本当に理解したのは、翌々日の、雨の夜だった。
(双葉、起きて! 陸が、部屋から荷物を持って出てった! 今、僕も追いかけてる!……たぶん、もう戻らないつもりだ!)
颯太の切迫した思考で、双葉は飛び起きた。窓の外では、冷たい雨が絶え間なく地面を叩いている。ざあざあという雨音が、世界のすべてを灰色に塗りつぶしていた。
颯太の視界を借りて、双葉は雨のなかを行く陸の背中を見た。傘もささず、小さなバッグひとつを肩にかけ、まっすぐ旧校舎のほうへ歩いていく。その足取りには、廃倉庫の夜のような迷いはもうなかった。むしろ、長く憑いていた何かが落ちたように、その背中は奇妙なくらい軽やかだった。
旧校舎の前で、あの上級生と数人の黒い影が、雨のなか、傘もささずに陸を待っていた。
「来てくれたね、迅雷陸くん。歓迎するよ。ようこそ、我々の“輪”へ」
「ああ」
陸は短く答えた。雨に濡れて額に貼りついた前髪の下で、その目は奇妙に澄んでいた。憑かれた者の静けさだった。
「もう、あの教室には戻らない。俺は俺を認めてくれるところで、本当の力を証明する。“落ちこぼれ”のまま終わってたまるかよ」
男が、陸の肩に手を置いた。ねぎらうように。取り込むように。黒い影たちが、陸を輪の中心へと迎え入れる。その光景は、まるで、家族に迎えられているようにも見えた。
――偽物の、家族に。
(……行っちゃう)
颯太の思考が震えた。
(双葉、どうしよう。止める? でも僕たちがいま出て行ったって、あんな連中に囲まれてる。何もできないよ)
双葉はぎゅっと拳を握りしめた。冷たい窓ガラスに額を押しつける。止めたい。でも、どうやって。自分たちは感覚共有しかできない、ただの平凡な人間だ。あの黒い影たちの前に飛び出したところで、雨に濡れた子犬が二匹、震えているのと変わらない。
そして――もし、この事態を、葵に伝えたら。
その考えが頭をよぎった瞬間、双葉の心臓が嫌な音を立てた。あの夜、葵はアンプルを「存在ごと」消した。テロリストを跡形もなく拭い去った。もし陸が『解放の輪』の一員になったと葵が知れば。“学園の均衡を壊す者”に成り果てたと知れば。あの子は、陸にどうするだろう。
(……颯太。私、怖い)
(うん)
(葵ちゃんに言えば、たぶん陸くんは止められる。あの力なら簡単に。でも、止められたあとの陸くんがどうなるのか。私、それを想像できないよ)
“処理”という、あの平坦な声で告げられた言葉が、双葉の頭のなかで冷たく反響した。助けるために、伝える。でも伝えたその先で、陸が“消される”かもしれない。いったい、どちらが陸のためなのか。誰も教えてくれない。誰にも相談できない。この重すぎる秤を、たった二人で抱えるしかない。
雨のなか、陸の背中が、黒い影たちに囲まれて、旧校舎の深い闇へと消えていく。双子は、それをただ見送ることしかできなかった。指一本、動かせないまま。
思い返せば、兆候は、いくつもあった。あの、消灯前の「いいよな」という呟き。消えた記録ノート。据わった目。颯太は、そのすべてを見ていたのに、何ひとつ、止められなかった。いや――止めなかった、のかもしれない。心のどこかで、「関わって、自分まで危険な目に遭いたくない」と、逃げていたのかもしれない。その後ろめたさが、今になって、じくじくと胸を刺す。
颯太は、無人になった部屋に、一人、座り込んでいた。向かいの、陸のベッド。きれいに整えられた、もう主のいないシーツ。ついさっきまで、この部屋には、確かに二人分の呼吸があったのに。今は、雨音と、颯太自身の心臓の音しか、聞こえない。
(……なあ、双葉)
颯太が、掠れた思考を送った。
(僕さ、あいつのこと、ずっと嫌いだったんだ。散々、馬鹿にされてきたし。……なのに、いざいなくなると、こんなに、胸が痛いんだ。なんでだろう)
(それはね)
(颯太が、優しいからだよ。……嫌いな相手のことも、ちゃんと、人として見てたから)
(……そうかな)
(うん。だから、痛いんだよ。当たり前だよ)
颯太は、しばらく黙っていた。雨が、窓を叩いている。やがて、ぽつりと、思考が漏れた。
(……取り戻したい。陸を。あんな連中のところから)
それは、颯太が、生まれて初めて抱いた、誰かのための、切実な願いだった。
(……ねえ、颯太)
(なに)
(私たち、いつか選ばなきゃいけないのかな。誰かを助けるために、別の誰かを黙って見捨てるみたいな。そんな選択を)
颯太は、しばらく答えなかった。雨音だけが、二つの部屋を満たしていた。やがて、その雨に紛れるように、弱々しい思考が返ってきた。
(……わかんない。でも、たぶんね。葵ちゃんは、ずっとそういうのを、たった一人で選び続けてきたんだと思う。誰にも言えないまま。あの気弱な顔の裏側で)
「いいよな、それ。一人ぼっちじゃなくて」――陸の、あの夜の言葉が、颯太の胸に蘇っていた。あいつは、ずっと、独りだったのだ。速さに縋り、強さを誇示し、周りを見下すことでしか、自分を保てなかった。その鎧の下で、本当は、誰よりも、誰かと繋がりたかった。認められたかった。ただ、その願いの伝え方を、あいつは、最後まで、知らなかった。
もし、自分たちが、もっと早く、あいつに手を差し伸べていたら。何かが、変わっていただろうか。
――今さら考えても、詮ないことだった。あいつは、繋がりたかったのかもしれない。誰かと。どこかと。その相手が、よりによって、あんな連中だったというだけで。窓の外の雨は、夜が明けるまで止むことはなかった。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




