第6話 渇き
陸の異変に、颯太は同室者として、誰よりも早く気づいた。
あの廃倉庫の夜以来、抜け殻のようだった男が、少しずつ生気を取り戻していた。ただし、それは良い兆候ではなかった。
(双葉。陸、最近やたら機嫌がいいんだ。いや、機嫌がいいっていうのとは違うな。目が、据わってる)
変化は、細部に表れた。以前の陸は、食堂でいつも一番大きな声で喋り、周りに聞こえよがしに自分の武勇伝を語る男だった。それが、ここ数日はやけに静かで、一人で黙々と食べては、さっさと席を立つ。かと思えば、夜中にふと目を覚ますと、暗い部屋で陸がベッドに座り、じっと自分の両手を見つめていることがあった。
颯太は陸のことを、嫌いだった。散々見下され、こき使われてきた。でも、同室で一年近く過ごすうちに、颯太は知ってしまった。陸が、消灯後にこっそり抜け出して、深夜の訓練場を走り込んでいること。手足に、絶えず古いテーピングの跡があること。机の引き出しに、ぼろぼろになった陸上競技の記録ノートが、何冊も仕舞われていること。あの男は、口だけの男ではなかった。誰よりも努力して、誰よりも「速さ」に縋ってきた。だからこそ、それが通用しなかったあの夜が、彼を根こそぎ壊してしまったのだ。
(……あいつ、嫌なやつだけどさ。バカみたいに努力はしてたんだよ。それだけは、僕、知ってる)
(うん。……だから、よけいに、危ういんだね)
一度だけ、颯太は、陸に声をかけようとしたことがあった。深夜、また一人で走りに行こうとする陸の背中に。「あの……」と。だが、振り返った陸の目を見て、颯太は言葉を失った。そこにあったのは、いつもの見下すような色ではなく、底の見えない、暗い穴のような虚ろだった。「……なんだよ」と低く問われて、颯太は「なんでもない」と首を振るしかなかった。何か言えたかもしれない。「一人で抱え込むなよ」とか、「まだ、間に合うよ」とか。でも、そんな言葉を、自分のような“平凡”が口にしたところで、この男に届くはずがない。そう思うと、舌が動かなかった。あの時、勇気を出していれば。颯太は、後になって、何度もそう悔やむことになる。
ある放課後、颯太の視界のなかで、陸は洗面所の鏡の前に立っていた。自分の拳を握っては開き、握っては開き。何かを確かめるように。あるいは、これから手に入るものを期待するように。
「……見てろよ」鏡に向かって、陸が低く呟いた。「もうすぐだ。もうすぐ、俺は、あいつらを全員……」
その独り言は、陸のポケットにある端末から音が鳴ったことで途切れた。陸は画面をちらりと見て周囲を窺い、そそくさと部屋を出て行った。
(双葉、陸が部屋を出ていった!)
(颯太、追える?)
(やってみる。でも僕、足遅いから。感覚共有、頼むよ)
颯太はじゅうぶんに距離を保って、陸のあとをつけた。もし気づかれたら、と思うと心臓が痛いくらいに鳴る。角を曲がるたび、颯太は壁に張りつき、呼吸を殺した。一度、陸がふいに立ち止まって振り返った時には、颯太は近くの掃除用具入れに飛び込んで、扉の隙間から様子を窺うしかなかった。心臓の音が、陸に聞こえてしまうのではないかと思った。陸はしばらく廊下を見回し、何もいないと判断したのか、また歩き出した。陸が向かったのは、普段は誰も寄りつかない旧校舎の一室だった。
ドアのわずかな隙間から、颯太はなかを覗く。そこに、あの上級生がいた。廃倉庫で陸に薬を渡した、あの男だ。跡形もなく消えたと思っていたのに、ちゃんとまだ、学園のなかに潜んでいた。
「よく決心してくれたね、迅雷くん」
男の声は、人の好い教師のように穏やかだった。
「安心してくれ。この前のような乱暴な力の使い方は、させない。あれは我々のなかの、少し血の気の多い連中が勝手にやったことでね。本来、我々の目的は破壊じゃない。“解放”だよ」
「解放……」
「そう。君は、不当に評価されている」
男はゆっくりと陸の周りを歩きながら、言葉を続けた。傷口に、そっと蜜を塗り込んでいくように。
「君のその速さは本物だ。誰にも否定できない才能だ。ただ、この学園の歪んだ物差しがそれを測り損ねているだけなんだ。“C”なんて、くだらない一文字にね。我々のところへ来れば違う。君の力は正しく評価される。君が本当はどれだけの器なのか、皆に証明できるんだ」
陸の喉が、ごくり、と鳴った。その横顔を、颯太は、痛いほどの気持ちで見つめていた。かつて、あれほど傲慢だった男が、今は、飢えた子どものような目で、その言葉に縋ろうとしている。強さで人を見下していた男が、その強さを否定された途端、こんなにも脆く崩れてしまう。人の心とは、なんて危ういものなのだろう。そして、その危うさに、こんなにも的確に、爪を立ててくる連中がいる。
「君は、選ばれるべき人間なんだ」
男は、とどめを刺すように、囁いた。
「あの、Cクラスの隅で腐っていくには、君の翼は、大きすぎるよ」
(……ダメだ)
颯太の思考に焦りが滲む。
(あの言い方、ずるいよ。前は薬で釣ろうとして失敗したから、今度は“認めてやる”って釣ってる。陸がこの世で一番、欲しがってるものを餌にして)
双葉にも、それは痛いほど分かった。力ずくの誘惑なら、陸はあの夜の恐怖を思い出して拒めたかもしれない。でも、これは違う。
”おまえは本当はすごいんだ”
――それは陸が、ずっと誰かに言ってほしかった、たった一つの言葉だった。それを悪意が、こんなにも優しい顔をして差し出してくる。
「……本当に、俺を、認めてくれるのか」
陸の声が掠れていた。強がりの剥がれ落ちた、素の声だった。
「もちろんだとも。我々は才能を無駄にしない」
男はにっこりと笑った。そして、ふと思いついたように付け加えた。それこそが本題だ、とでもいうように。
「ああ、それと。もし君が、この学園の“内側の情報”を少し教えてくれるなら――たとえば、君の班にいる、あの妙な連中のことをね。あの薄気味悪いブースターの少女とか。それを教えてくれるなら、君への評価はいっそう高くなるよ」
陸の肩が、びくり、と震えた。
あの狐面の少女。自分を虫けらのように、絶望の底へ叩き落とした存在。その気配が話に出た瞬間、陸の目のなかで、恐怖と、それを塗り替えようとする暗い憎しみが、ちらりと光るのを、颯太は確かに見た。
颯太は、ドアの陰で、ぎゅっと目を閉じた。届かない場所で交わされる、甘い毒のような会話。それを、ただ盗み聞くことしかできない自分が、たまらなく歯痒かった。飛び込んでいって、「騙されるな!」と叫べたら、どれだけいいだろう。でも、そんなことをすれば、颯太のほうが“処理”されるだけだ。組織にとっても、あるいは――葵にとっても。自分は、ただの観察者。見ることしかできない、無力な目。その事実が、颯太の胸を、じりじりと焦がした。
(双葉。マズいよ、これ)
(うん……。陸くん、もう心が半分、あっち側に行っちゃってる)
旧校舎の埃だらけの窓の外で、夕日がじりじりと沈んでいく。その赤い光が、陸の横顔を、燃えているように染めていた。まるでこれから、彼が自分自身を焼き尽くしていくのを、予告するように。颯太は、それ以上見ていられなくて、そっとその場を離れた。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




