第5話 解放の輪
あの廃倉庫の夜から半月が過ぎても、学園の表向きは、恐ろしいほど平穏だった。
朝が来れば授業が始まり、昼が来れば食堂が混み合い、放課後には訓練場から能力の光がちらちらと漏れる。何も起きていない。何も、起きなかったことになっている。双葉は、その平穏そのものが、いまや薄気味悪く感じられるようになっていた。凪いだ水面の下で、何かが確実に蠢いている気がして。
噂を最初に拾ったのは、颯太だった。
夕食後の男子寮、共用スペース。漫画をめくるふりをしながら、颯太は少し離れたテーブルの上級生たちの会話に、そっと耳を澄ませていた。感覚共有を通して、その声は女子寮の双葉のもとへも流れ込んでくる。
「なあ、知ってるか。“解放の輪”ってやつ」
「なんだそれ。新しいバンドか?」
「ちげえよ。組織だよ。能力者を、この学園から“解放”してくれるっていう……」
声が、ふいにひそやかになった。
「ほら、うちの学園、外に出るの厳しいだろ。外泊届も通らねえし、卒業まで何年も塀の中だ。あいつら、それはおかしいって言ってるらしいぜ。能力者にも、自由に生きる権利があるって」
「……まあ、それは、ちょっと分かるけどな」
「だろ?」
(“解放の輪”……?颯太、もしかして)
(うん……。確証は、ないけど。あの廃倉庫で、陸に怪しい薬を渡してた、あの上級生。あいつも「この学園はおかしい」って、しきりに言ってた。この“解放の輪”ってやつらと、同じなんじゃないかな)
双葉の背筋を、冷たいものが撫でていった。名前までは、知らなかった。でも、もし颯太の勘が当たっているなら――あの夜、葵が消し去った黒い連中も、陸を誘ったあの上級生も、みんな、その“解放の輪”という一つの名前の下に、繋がっていることになる。葵が消したはずのものは、終わっていない。
それどころか、その影が、いまや生徒たちの口の端に、当たり前の噂話として、のぼり始めている。外の戦いが、内側へ染み出してきていた。
放課後、双子は示し合わせて、噂の出所を探ることにした。感覚共有は、こういう時にこそ真価を発揮する。双葉が旧館側を、颯太が部室棟側を同時に歩けば、一人で二箇所を探れる。二人でひとつの網を張るように、学園に散らばった噂を、少しずつたぐり寄せていった。
部室棟の裏の掲示板に、見慣れないビラが一枚、貼られていた。颯太が近づいて読む。感覚共有で、双葉も同じ文字を追った。
《あなたは、なぜ格付けされるのか。S、A、B、C、D。その一文字が、あなたの価値を決めていいのか。能力は罪ではない。閉じ込められる理由には、ならない。――解放を望む者へ。輪は、いつでも開かれている。》
(……なにこれ)
(勧誘のビラだ。……こんなの堂々と貼られてるのに、誰も剥がしてない)
颯太が周囲を窺い、そっとビラを剥がして丸めた。誰かが真に受ける前に、というささやかな抵抗のつもりだった。
その帰り道、双葉は見てしまった。中庭のベンチで、Dクラスの女子が二人、頭を寄せ合って端末を覗き込み、真剣な顔で頷き合っているのを。画面には、あの掲示板のビラと同じ、丸に一本線を引いた紋章が光っていた。声をかける勇気は、出なかった。かける言葉も、思いつかなかった。「それは危ないよ」と言ったところで、じゃあこの学園は安全なのか、と問い返されたら、双葉には答えられない。
(颯太。……もう、ビラを一枚剥がしたくらいじゃ、どうにもならないところまで来てるのかも)
(うん。……僕、正直に言うとさ)
(なに)
(この文章、読んでると、なんか間違ってない気がしちゃう時があるんだ)
それが、双葉には一番怖かった。
悪人が「悪いことをするぞ」と宣言してくれるなら、まだいい。逃げればいい、憎めばいい。でも『解放の輪』の言葉は違った。彼らの理屈は、どこか正しく聞こえてしまう。塀の中に閉じ込められ、五段階に格付けされ、「おまえはCだ」と烙印を押されて。そんな日々に静かな鬱屈を溜めた心に、あの甘い言葉は、まっすぐしみこんでいく。
次の日、双葉は思いきって、担任の教師にそれとなく尋ねてみた。最近、変なビラや噂を見かけるんですけど、大丈夫なんでしょうか、と。教師は一瞬だけ手を止め、それから、いつもの気だるげな笑みを浮かべて言った。「ああ、気にしなくていい。子どもの悪戯みたいなもんだ。それより、来週の実技試験の準備はできてるのか?」――はぐらかされた。いや、はぐらかされたというより、学園そのものが、この件を「なかったこと」にしようとしている。そう感じた。あの警報の夜と、同じように。
(先生も、知ってて、見ないふりをしてる気がする)
(……この学園、やっぱりどこか、おかしいよ)
数日のうちに、変化は目に見える形になっていった。いつも一緒に昼を食べていたクラスの男子が、二人、三人と、姿を見せなくなった。噂では、夜な夜な旧校舎に集まって、“輪”の集会に出ているのだという。廊下ですれ違っても、以前のように笑って手を挙げることはなく、どこか思い詰めた、けれど妙に晴れやかな顔で、通り過ぎていく。
双葉は、そのうちの一人――同じ委員会だった、大人しい男子に、一度だけ声をかけたことがあった。「最近、大丈夫? なんか、疲れてない?」と。彼は、少し驚いたように双葉を見て、それから、ふっと笑った。「大丈夫だよ。むしろ、やっと、自分の居場所が見つかった気がするんだ」
――その目が、あまりにも澄んでいて、双葉は、それ以上、何も言えなかった。救いを求めていたはずの人が、間違った場所で、間違った救いを見つけて、それで、幸せそうにしている。その光景ほど、双葉を無力にさせるものは、なかった。
その夜、双葉はなかなか寝つけなかった。ふと隣を見れば、葵のベッドは、また空だった。前なら、トイレかなと思ってそのまま眠っていた。でも今夜は、確かめたかった。双葉は息を殺してベッドを抜け、そっと部屋のドアを開けた。廊下は、しん、と静まり返っている。葵の姿は、どこにもなかった。
行ってはいけない気がして、双葉はドアを閉めた。布団に潜り込み、目を閉じる。いま、この瞬間も。あの子は学園の暗がりのどこかで、誰にも気づかれず、何かを“処理”しているのかもしれない。ビラを剥がすなんて可愛いものではない、もっと決定的な何かを。その背中の重さを想像して、双葉は長いあいだ、天井を見上げていた。
どれくらい経っただろう。かすかな物音に、双葉ははっと目を開けた。ドアが、そっと開く音。足音を殺して、葵が戻ってきたのだ。双葉は慌てて寝返りを打ち、眠ったふりをした。まぶたの裏で、葵がベッドに入る気配を追う。衣擦れの音。小さな、疲れたような吐息。そして――ほんの一瞬、鼻をかすめた、焦げたような、鉄のような、嗅ぎ慣れない匂い。
それが何の匂いなのか、双葉は、考えないことにした。考えてしまったら、明日から、この子の隣で眠れなくなる気がして。ただ、闇のなかで、双葉は、そっと祈った。あの子が、いつか、こんな夜を過ごさなくてよくなりますように、と。誰に向けた祈りかも、分からないまま。
お読みいただきありがとうございました。
「面白い」と思っていただけたら、ブックマーク・★評価で応援いただけると、とても励みになります。
次話は明日21時ごろ更新予定です。




