第4話 観察者たち
あの夜から、一週間が過ぎた。
学園は、何も変わらなかった。廃倉庫の一件も、当然のように、どこにも記録されていない。陸を誘った上級生の姿を、あれ以来、校内で見かけることもなかった。まるで、その男もまた、あの紫色の水滴と一緒に、世界から拭い去られてしまったかのように。
変わったのは、双子のほうだった。
(……ねえ双葉。僕、ずっと考えてるんだけど)
朝の教室。窓際の席で、双葉は頬杖をつきながら、弟の思考に耳を澄ませていた。颯太は隣の男子の列にいる。
(僕たち、このまま知らないふりして生きていくの? あの夜のこと、全部、なかったことにして)
(……できると思う? あんなの見ちゃって)
(無理だよね。……でも、じゃあどうするの。先生に言う? 「同室の子が、実は世界を消せる化け物です」って? 誰が信じるのさ)
双葉は、そっと教室の後方へ視線を送った。
葵は、いつもどおり、一番後ろの隅の席にいた。背中を丸めて、小さくなって、ノートに何かを書き写している。前の席の女子が消しゴムを落とすと、「あ、はい」と慌てて拾って手渡し、そのくせ「あ、す、すみません」と自分のほうが謝っている。
どこにでもいる、気弱な生徒。
でも、双葉はもう、その姿を素直に信じられなくなっていた。あの背中のなかに、いったい何が詰まっているのか。あの細い指が、どれだけのものを"消して"きたのか。
(……颯太。私、思うんだけど)
(うん)
(放っておけないよ。怖いけど。……だってあの子、たぶん、ずっと一人でやってるんだよ。あんな怖いこと、誰にも言えないまま、あの気弱な顔の裏に隠して)
颯太の思考が、少しの間、沈黙した。それから、静かに戻ってきた。
(……見てよう。僕たちで。何もできないかもしれないけど。せめて、あの子が何を抱えてるのか、ちゃんと見ておこう)
(うん。……気づかれないように、そっとね)
それは、双子にとって、はじめての“決意”だった。誰にも褒められない、誰にも打ち明けられない、たった二人だけの約束。
◇
観察を決めてから、双子の日常は、少しだけ、色を変えた。これまでは、ただ流れていくだけだった学園生活の一コマ一コマに、双子は、目を凝らすようになった。葵が、いつ、どこで、誰と、何をしているのか。感覚共有を使えば、女子寮の双葉と、男子寮の颯太で、葵の一日を、ほとんど途切れなく追うことができる。
分かってきたのは、葵の生活が、驚くほど「規則正しく、そして、空白が多い」ということだった。授業に出て、食堂で食べて、図書室で本を借りて、寮に帰る。判で押したような日常。けれど、その合間に、ふっと、姿が“消える”時間が、必ずあった。放課後の、わずか十数分。昼休みの、ほんの数分。誰も気に留めないような、小さな隙間。その時間、葵が何をしているのか、双子にも、掴めなかった。まるで、その数分だけ、世界から切り取られているかのように。
観察を決めてみると、これまで見過ごしていた“ほころび”は、他にも、少しずつ目に留まるようになった。
たとえば、その日の実技の授業。
Cクラス合同の、能力制御訓練。生徒の一人が、制御を誤って、小さな火の球を暴発させかけた。ほんの一瞬。ボッ、と空気が膨らむような気配があって──次の瞬間には、火の球は、まるで最初から存在しなかったように、消えていた。
教師は「はい、危ないぞ、集中しろ」と気だるげに注意しただけ。暴発させかけた生徒本人も、きょとん、としている。誰も、何が起きたのか気づいていない。
双葉だけが、見ていた。その一瞬、隅の席の葵が、ほんのわずかに、指先を動かしたのを。
(……颯太、今の見た?)
(見た。……葵ちゃん、今、何かした。誰にも気づかれないように、事故が起きる前に、消しちゃったんだ)
誰も知らない。誰も感謝しない。ただ、日常が、何事もなく続いていく。その“何事もなさ”の裏側で、あの子は、ずっと、こうやって。
双葉の胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
◇
もうひとつ、双葉が見てしまったものがある。
その日の深夜。ふと目を覚ますと、案の定、葵のベッドは空だった。いつもなら、そのまままた眠ってしまう。でも、その夜は違った。双葉は、そっと窓の外を覗いた。
女子寮の屋上。細い月明かりの下に、二つの人影があった。
葵と、詩織。
風向きのせいか、言葉の切れ端だけが、途切れ途切れに届いてくる。
「……様。今回のことも、あなた様が一人で背負う必要は……」
詩織の声。その響きには、食堂で見せるあの陶酔した崇拝とは違う、もっと切実な、何かを案じるような色があった。
葵は、しばらく何も答えなかった。手すりに寄りかかって、夜空を見上げているようだった。それから、ぽつりと、風に乗せるように呟いた。
「……いいんだよ、詩織。これは、私が選んだことだから」
その声には──あの廃倉庫で聞いた、冷たく平坦な声とも、教室で聞くおどおどした声とも違う、三つ目の響きがあった。ひどく疲れた、けれど、どこか優しい。そんな、素の声だった。
双葉は、それ以上聞いてはいけない気がして、そっと窓から離れた。布団に潜り込んで、目を閉じる。けれど、なかなか眠れなかった。
(颯太……起きてる?)
(……起きてる。今の、見てた。感覚共有で)
(……葵ちゃん、何を選んだんだろう。何を、一人で背負ってるんだろう)
(分かんない。……でも、詩織さんが「一人で背負うな」って言うくらい、重いものなんだよ。きっと)
窓の外で、風が、トタンをかすかに鳴らしていた。
双子は、その夜、遅くまで、声のない会話を続けた。答えの出ない問いを、何度も、二人で転がしながら。
◇
そして──日常の水面下で、別の何かも、静かに動き出していた。
あの一件以来、すっかり大人しくなったかに見えた陸。彼は、以前のように威張り散らすことこそなくなったが、その目の奥で燻っている火は、消えていなかった。むしろ、行き場を失って、内側でじりじりと熱を溜めているようだった。
颯太は、同室者として、それを肌で感じ取っていた。
(陸のやつ、夜、よく眠れてないみたい。時々、歯を食いしばって、天井を睨んでる。……「まだだ」「まだ終わってない」って、寝言みたいに呟いてるんだ)
(……まだ、って?)
(分かんない。でも、あの目……あの夜、廃倉庫で薬に手を伸ばした時の目に、似てる気がするんだ)
一度は、葵に止められた。一度は、命を拾われた。
それでも──認められたい、見返したい、という陸の渇きは、あの夜の恐怖くらいでは、消えてはくれなかった。
そして、そういう“渇いた者”を、決して見逃さない連中がいる。
双子は、まだ知らない。あの廃倉庫の男たちが属していた組織──『解放の輪』が、この学園に、もっと深く、静かに根を張り始めていることを。
嵐の前の、束の間の凪。
その静けさのなかで、観察者たる双子の、長い長い“見届け”が、いま、始まろうとしていた。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




