第3話 軋み
(双葉! ちょっと、これ見て! ……マズいかもしれない)
数日後の放課後。男子寮にいるはずの颯太から、緊張を孕んだ思考が飛んできた。
(颯太? どうしたの、いまどこにいるの)
(地下のトレーニングルーム。換気ダクトの点検の手伝いに駆り出されてて……天井裏にいるんだけど。……下で、陸が)
颯太の感覚共有を通じて、薄暗いトレーニングルームの光景が、格子状のダクト越しに流れ込んできた。
重い機械音が響いていた。ランニングマシンが、壊れる寸前のような回転数で唸りを上げている。その上を、陸が走っていた。
足取りは、無残だった。直線的なスピードだけは出ているが、体の軸はぶれ、フォームは崩れ、一歩ごとに、今にも転倒しそうにつんのめる。全身から噴き出した汗が、床のゴムマットへぼたぼたと落ちていく。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ! ガ、はッ……!」
やがてマシンの安全装置が作動し、けたたましい警告音とともに、ベルトが緊急停止した。陸は勢いを殺しきれず、引きずられるように床へ投げ出された。
「くそっ……くそがっ……!」
陸がコンクリートの床に拳を叩きつける。
一度、二度。皮膚が裂け、血が滲むのも構わずに。
(……陸、あの夜からずっとこうなんだ。狂ったみたいに走り込んでる。でも、焦れば焦るほど、動きが雑になってってさ)
颯太の声には、かつて自分を見下していた相手への、わずかな同情が滲んでいた。
ダクトの格子越しでも、陸の横顔ははっきり見えた。そこに宿っていたのは、向上心などという綺麗なものではなかった。追い詰められた獣のような、色の濃い恐怖と、屈辱。それが、彼のプライドを内側から少しずつ焼き尽くしているのが、傍目にも分かるようだった。
あの夜、自慢のスピードは、葵の“静けさ”の前で、何ひとつ役に立たなかった。見下していた『落ちこぼれ』に、一瞬で、途方もなく引き離された。その事実が、陸を蝕んでいた。
「──痛々しいねえ、迅雷陸くん」
暗がりから、聞き覚えのない声がした。
(……誰?同じクラスのやつ、じゃない?)
颯太も気づいていなかったのだろう。いつの間にか、制服を着た、見覚えのない上級生の男が、倒れ込んだ陸を見下ろすように立っていた。男は懐から、小さなガラスのアンプルを取り出した。なかで、不気味な紫色の液体が、とろりと揺れている。
「だ……れだ、お前……」
「君の悔しさは、よく分かるよ。この学園は、正しく評価をしない。君のような本物の才能を、こんなCクラスの隅に押し込めて、笑いものにしている。おかしいと思わないか?」
男は屈み込み、アンプルを、陸の目の前へ突きつけた。
「これを使えば、君の限界は消える。音速すら超えられる。あの気取った特待生も、君を馬鹿にした連中も、あの薄気味悪いブースターも──全員、置き去りにできるんだ」
「……あ……」
陸の瞳が、ぐらり、と揺れた。
それが危険な代物だということくらい、陸にだって分かっているはずだった。分かっていて、なお。男の言葉は、崖っぷちに爪先立ちする陸の耳へ、甘い救いの声のように染み込んでいくようだった。
(──ダメだ、陸! 手を出すな! そんなの、絶対ロクなもんじゃない!)
ダクトの奥で、颯太が心のなかで叫ぶ。届くはずのない声だと分かっていても、叫ばずにはいられなかった。
陸の、血の滲んだ震える手が、吸い寄せられるように、アンプルへ伸びていく。その指先が、冷たいガラスに触れた。
(双葉……! 陸が、陸が怪しい薬を、受け取っちゃった……!)
(嘘でしょ……!? アイツ、何を考えてるの……!?)
自室のベッドの上で、双葉は体を硬くした。
もし陸が、あの薬に手を出して、学園の“何か”を壊す側に回ってしまったら。あの夜、テロリストたちを「存在ごと」拭い去った、あの静かな手つき。あれが、今度は陸に向けられるのではないか。
双葉は、部屋の奥へと目をやった。そこでは葵が、いつものように、静かに教科書のページをめくっている。その背中は──恐ろしいほど、動かなかった。まるで、これから起きることの、すべてを知っているみたいに。
◇
その夜。時計の針が、零時を回った。
(双葉! 陸が部屋を抜け出した! ……裏手の、廃倉庫のほうへ向かってる!)
颯太の切迫した思考が、まどろみかけていた双葉を叩き起こした。
(やっぱり……! 颯太、追える!?)
(うん、距離を空けて追ってる。でも……どうしよう、能力は使ってないからついていけるけど追いついたところで、僕じゃ止められない……!)
(私も行く! 感覚共有、絶対に切らないで!)
双葉は上着だけ羽織り、寮の窓から外へ滑り出た。夜気は刺すように冷たい。校舎の影から影へと走りながら、頭のなかでは、颯太の見ている光景がリアルタイムで再生され続けている。二つの視界が重なって、少し、めまいがした。
学園の外縁部にある、使われなくなった廃倉庫。錆びたトタン屋根が、夜風にぎしぎしと軋んでいた。
その薄暗い内部に、人影があった。昼間の上級生と、黒い服を着た男たちが、数名。ゆらりと佇んでいる。そしてその中央で──陸が、アンプルを握りしめて、立っていた。
「さあ、注射したまえ、迅雷陸。それで君は、ようやく“本物”になれる」
「俺は……俺は、雑魚じゃ、ない……! 俺が、俺が一番なんだ、ずっと……!」
陸の手が、ぶるぶると震える。アンプルの先端の、鋭い針が、ゆっくりと、自分の首筋へと向けられていく。
(陸っ────!!)
颯太が、たまらず物陰から飛び出そうとした、その時だった。
パチン
指を鳴らす、乾いた音が、倉庫のなかに小さく弾けた。
「──え?」
陸の口から、間の抜けた声が漏れた。陸の手のなかから、感触が、消えていた。
アンプルがない。針も、紫色の液体も、冷たいガラスの手触りすらも。まるで最初から何も持っていなかったかのように、陸の指は、虚しく空を握りしめている。
「な……っ、どこだ……!? 俺の……俺の薬は……!?」
「危ないから、やめなさい」
暗がりの奥から、静かな声がした。
男たちが、弾かれたように声のほうへ銃口を向ける。だが、引き金を引くより早く、彼らの体は見えない力で宙へ引きずり上げられ、次の瞬間には、倉庫の壁へと叩きつけられていた。張りつけにされた男たちの喉元へ、どこからともなく銀色のナイフが浮かび上がり、ぴたりと突きつけられる。
神楽詩織。だが、双葉の背筋を凍らせたのは、詩織ではなかった。
月光の差し込む入口に、ぽつんと、小さな影が立っていた。漆黒の狐面をつけ、サイズの合わない制服を着た、少女。灰原葵。
葵は、右の指先を、すっと持ち上げた。その指の先──何もなかったはずの宙に、小さな紫色の水滴が、ひとつ、浮かんでいた。陸の手元から消えた、あのアンプルの中身だった。中身だけが、こうして引き抜かれ、宙に留められている。
葵が、その水滴に向かって、ふっと、そっと息を吹きかけた。
ただ、それだけだった。
紫色の液体は、弾けもしなければ、床へ落ちもしなかった。ただ、朝露が陽の光に溶けていくように、しずかに空気へ混ざり、消えた。存在そのものが、この世界からきれいに拭い去られてしまった。何の痕跡も、残さずに。
「ひ……あ……」
陸の膝が、かくんと折れた。糸の切れた人形のように、床へ崩れ落ちる。
「陸くん」
面越しの声は、どこまでも平坦だった。怒りも、蔑みも、哀れみすらも含まれていない。ただ、ひとつの“事実”を告げるためだけの声。
「自分の力を、証明したかったんだね。……その気持ちは、わかる。でも、学園の均衡を壊すなら、誰かが止めなきゃいけない。──たとえ、どんなやり方をしてでも」
「お……お前……」
陸は、涙と汗でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、喉が裂けるような悲鳴を上げた。
「10%ブースターの、落ちこぼれじゃ、なかったのかよ……!? なんなんだよ、それ……! 何やってんだよ、お前ッ……! お前は……お前は、いったい、何者なんだよぉっ……!!」
夜の廃倉庫に、陸の絶叫が、虚しくこだました。
狐面の少女は、何も答えなかった。ただ、月を背にして、ひどく静かに、そこに佇んでいるだけだった。その沈黙こそが、どんな答えよりも重く、恐ろしかった。
離れた物陰でそれを見ていた颯太と、校舎の敷地を駆けながらその映像を脳裏で見ていた双葉は──同時に、息を止めていた。
(……ねえ、颯太)
(……うん)
(葵ちゃんは……私達が思ってたような、“ただの生徒”なんかじゃない)
(……知っちゃったね、僕たち)
静まり返った夜のなかで、双子の震える思考だけが、暗闇を、何度も、何度も往復していた。
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