第2話 日常の輪郭
翌朝、学園が全生徒に向けて出した通知は、たった一行だった。
『昨夜の警報は、警戒システムの誤作動によるものです。避難にご協力いただき、ありがとうございました』
誤作動。
双葉は、配布された端末の画面を、何度も指でなぞった。
瓦礫も、焦げ跡も、割れた窓ガラスの一枚もない。警察の現場検証もなければ、負傷者の話も聞かない。まるで昨夜の爆発など、はじめから存在しなかったかのように。あの惨劇を覚えているのは、恐らく、あの現場に居合わせた者だけだ。
登校の道すがら、双葉は、すれ違う生徒たちの顔を、そっと窺った。誰も、昨夜のことなど気にしていない。昨日の夜、確かにこの学園で、大きな爆発があって、大勢の武装した人間がいて、そして――それが、跡形もなく消えた。なのに、朝が来れば、いつもの日常が、何食わぬ顔で戻っている。まるで、悪い夢でも見ていたかのように。
いや、と双葉は思い直す。夢だったなら、どれだけよかっただろう。夢なら、隣のベッドのあの子が、狐面をつけて出ていく姿も、なかったことにできる。でも、あれは、現実だった。この、あまりにも平穏な朝のほうこそが、丁寧に作られた「嘘」なのだ。
一限目の座学。教壇では、能力工学の教師が、いつもと同じ気だるげな声で出席を取っている。窓の外では、昨夜あれほどの炎に包まれた第一訓練区で、下級生たちが呑気に基礎訓練をしていた。芝生に、焦げ跡ひとつない。
(……ねえ、颯太。あそこ、昨日ほんとに燃えてたんだよね)
(燃えてた。僕、この目で見た。……でも、今はもう、誰も覚えてないみたいに動いてる)
クラスメイトたちは、何事もなかったように午後の実技の話で盛り上がっている。「昨日の警報、マジびびったわー」「システムの誤作動って、ほんと勘弁してほしいよな」──その程度の、笑い話として。
誰も、疑っていない。疑うだけの“痕跡”が、どこにも残っていないからだ。
双葉は、ぞっとした。事件を消すというのは、こういうことなのか。人の記憶が追いつく前に、証拠ごと、なかったことにしてしまう。誰にも気づかせずに。
昼、食堂。
向かいの席で、葵は学園指定のポタージュを、ふー、ふー、と丁寧に冷ましながら口へ運んでいた。一口すするたびに「あつい……」と小さくこぼして、猫舌なのか、少し困ったように眉を寄せる。
どこからどう見ても、昨日までとまったく変わらない、冴えないCクラスの少女だった。
(……私、分かんなくなってきた)
(何が?)
(どっちが本物なのって。昨日のあれが演技だったの? それとも、この“葵ちゃん”のほうが演技なの……?)
颯太からの返事は、すぐには来なかった。かわりに、彼の視界が流れ込んでくる。食堂の、少し離れたテーブル。そこに、陸がいた。
陸は、自分の皿を睨みつけたまま、固まっていた。スプーンを握った右手が、ミリ単位で、細かく震えている。皿のなかのカレーは、ほとんど手つかずのまま、とっくに冷めていた。かつて「俺はSクラスの器だ」と大声で周囲を威圧していた男の面影は、そこには欠片もなかった。
颯太が、意を決したように声をかけた。
「陸。座学のノート……ちょっと見せてくれよ」
陸は、のろのろと顔を上げた。焦点の合わない目で颯太を見て、それから無言で、鞄からノートを引き抜いて、すべらせるように差し出してくる。ひとことも、喋らなかった。かつてなら「はぁ? 自分で取れよ」と鼻で笑ったはずの男が。
(……完全に、壊れてる)
(無理もないよ。あんなの、目の前で見せられたらさ……)
その時、双葉のテーブルに、すっと横から人影が差した。
神楽詩織だった。手には、食堂のメニューにはありえない、上等なティーカップの載ったトレー。彼女は双葉の存在などはじめから目に入っていないかのように、滑らかな所作で葵の隣へ腰を下ろし、カップをそっと置いた。
「葵様。食後のお茶をお持ちいたしましたわ。……本日は、あなた様のお好きなアッサムを」
「あ……ありがとう、詩織。でも、私、本当に食堂のお水で大丈夫だからね……? こんな高そうなの、悪いよ……」
葵が、おろおろと手を振る。詩織は、それにうっとりとした笑みを返した。
「滅相もございません。葵様がそのようなお気遣いをなさる必要など、どこにも。……わたくしにとっては、これが当たり前のことですもの」
詩織の視線も、指先も、呼吸のひとつひとつまでが、葵という存在にだけ、真っ直ぐに注がれていた。
学年トップの特待生が、なぜ、ただの『10%ブースター』に、ここまで頭を垂れるのか。
昨夜の“何か”を知ってしまった今、その光景は、双葉の目にはもう、ただの微笑ましい懐きようには映らなかった。むしろ、ぞっとした。詩織は──知っているのだ。葵が“何者”なのかを。知っていて、あの態度なのだ。あの崇拝は、勘違いや盲目ではない。正体を知ったうえでの、確信に満ちた忠誠だった。
双葉は、こっそり、二人の様子を観察し続けた。葵は、詩織が話しかけるたびに、恐縮したように身を縮める。「そんな、私なんかに」「もったいないよ」と、しきりに手を振る。その姿は、どう見ても、身に余る好意に戸惑う、気弱な生徒そのものだった。
でも――と、双葉は思う。もし、これが全部、演技だとしたら。もし、あの気弱さの一枚下に、昨夜のあの“静けさ”が、いつも、じっと潜んでいるのだとしたら。この、和やかな昼食の風景は、どれほど、恐ろしいものになるだろう。目の前でスープを冷ましているこの子は、その気になれば、この食堂ごと、自分たちの存在ごと、一瞬で「なかったこと」にできるのかもしれないのだ。
その想像に、双葉は、背筋が寒くなった。
(ねえ、颯太)
(うん。……やっぱり、おかしい。全部おかしいよ、この班)
(葵ちゃん、神楽さん、陸くん……。私達、とんでもないところに放り込まれちゃったのかも)
双葉が見つめる先で、葵は困ったように微笑みながら、詩織の淹れたお茶に、遠慮がちに一口だけ口をつけた。「……おいしい」と、ほっとしたように呟いて、少しだけ、肩の力を抜いて。
その、ほんの一瞬。
カップを持つ葵の指が、ひどく綺麗な所作で止まったのを、双葉は見た気がした。気弱な生徒の、おどおどした手つきではなく──ずっと洗練された、静かな指の運び。
だが、瞬きの間に、それはいつもの頼りない葵に戻っていた。
(……気のせい、かな)
双葉には、その笑顔の奥にあるものが、最後まで、読み取れなかった。
お読みいただきありがとうございます。
このあと23時ごろ、第3話を投稿します。もう少しだけお付き合いください。




