第52話 勝者のいない、その後
【蓮side】
白い仮面が消えたあと、施設の駒にされていた子どもたちは、糸が切れたようにその場へ倒れ込んだ。全員、息はある。灰原が力を鎮める前に、一人ひとりそっと深い眠りへ返していったのだ。世界を書き換えるほどの力を振るいかけて、そのいちばん張り詰めた瞬間の端で、こんなにも細やかに、ひとつずつ命を拾っていた。それが、あいつだった。
俺は崩れ落ちた灰原のそばへ駆け寄った。狐面は外れていた。あらわになった顔はひどく疲れていて、でも、長く憑いていた何かがようやく落ちたみたいに、静かだった。
「灰原。……大丈夫か」
「……うん」あいつは力なく笑った。声は掠れていたが、その響きは不思議と穏やかだった。「消さなかったよ、私。消せたけど。……消さなかった」
その一言に、どれだけの重さがこもっているのか。俺にはたぶん半分も分からなかった。世界を消せる力を持った人間が、消さないと選ぶ。その孤独も、その意味も、俺には遠すぎる。それでも俺は深く頷いた。「ああ。見てた。……よく堪えたな」
あいつの目がかすかに潤んだ。それから子どものように、こくりと頷いた。「うん。……堪えた」
◇
意識のない下級生の子は、俺の背に負われて地上へと運ばれた。詩織が手際よく施設の痕跡を消していく。この事件も、また、なかったことにされるのだろう。助けられた子どもたちは、目を覚ませば長い風邪で寝込んでいたと思い込まされる。誰も、この夜、地下で何があったのかを知らないまま。
だが、俺たちは知っている。灰原がたった一人で何と戦ったのか。そして最後に、何を選ばなかったのか。それを覚えている者が、ここにいる。双子も、詩織も、俺も。それはたぶん、あいつがこれまで、いちばん欲しくて、いちばん諦めてきたものだった。誰かに、覚えていてもらうこと。一人ではないと、知ること。
地下の入口で、双子が待っていた。双葉が、灰原の顔を見るなり、ぼろぼろと泣き出した。「葵ちゃん……よかった……帰ってきて、くれた」。しゃくり上げるその肩を、灰原は、少し戸惑いながら、そっと抱き寄せた。「……心配、かけたね。ごめん」。颯太も、鼻をすすりながら、何度も頷いている。あの土壇場で、二人がずっと叫び続けていたことを、俺は後から知った。届かないと分かっていて、それでも。その声が、たぶん、あいつを引き戻す、最後のひと押しになった。
詩織は、少し離れて立っていた。いつもの涼しい顔で。だが、その手が、かすかに震えているのを、俺は見た。「……ご無事で、何よりです、葵様」。それだけ言うのが、精一杯みたいだった。灰原は、詩織のほうを見て、静かに笑った。「うん。ちゃんと、戻ってきたよ。あなたが、そう信じてくれてたから」。詩織は、何も言わずに、ただ深く、頭を垂れた。その頬が、ほんの少し、濡れていた気がした。
地上に出ると、空が白み始めていた。長い夜が静かに明けていく。灰原はその朝の光の中で、ぽつりと言った。「あの男は逃げた。先代の本当のことは、何も分からないまま。私の過去も、まだ半分しか掴めてない」。その声に、悔しさはあまりなかった。ただ、次を見据える静かな決意だけがあった。
「でも、ひとつだけ、はっきり分かったことがある」あいつは昇っていく朝日をまっすぐ見上げた。「私は、消さない。何があっても。どんなに苦しくても。……たぶん、これが私の答えなんだと思う。ずっと探してた、答え」
その横顔は、これまで俺が見たどの灰原よりも、少しだけ軽やかだった。まだ重い荷物を背負っている。過去も、罪も、これから始まる戦いも。何ひとつ下ろせてはいない。でも、その背負い方が変わった気がした。うずくまって耐えるのではなく、立って、前を見て、歩くための背負い方に。
「なあ、灰原」俺は訊いた。「これから、どうするんだ。あの、白い仮面を、追うのか」
「うん」あいつは、迷いなく頷いた。「あいつは、先代のことを知ってる。私の過去のことも。逃がしたけど、繋がる糸は、まだ切れてない。……それに、あの仕組みは、まだ動いてる。この学園だけじゃない。もっと大きな場所で。放っておけば、また、子どもが消える。だから、追う。今度は、私が」
その声には、悲壮さはなかった。ただ、静かな覚悟だけがあった。以前のあいつなら、この決意を、一人で、誰にも言わずに抱え込んだだろう。でも今のあいつは、こうして、俺に話してくれている。それが、どれだけ大きな変化なのか。俺には、少しだけ、分かる気がした。
「そうか」俺は頷いた。「なら、俺も強くなるわ。お前が振り返ったとき、隣に立てるくらいには。……まだ、足りないけどな。今日、ちょっとだけ、届いた気がしたんだ。俺の力。守りたいと思ってる間は、消えなかった」。あいつは、へえ、と目を丸くして、それから、嬉しそうに笑った。「よかったね。……うん、見てたよ。かっこよかった」。からかうような口ぶりだったが、その目は、本当に嬉しそうだった。
この夜、勝った者はいない。白い仮面は逃げ、先代の謎は残り、あの途方もなく巨大な仕組みは、まだどこかで動き続けている。何ひとつ終わってなんかいない。それでも、と俺は思う。灰原は、いちばん大事な戦いに勝ったのだ。ほかの誰でもない、自分自身に。
「なあ、灰原」俺は努めて軽い声で言った。「朝飯、食いに行かないか。腹、減っただろ」
あいつはきょとんとして、それから今度は本当に、声を出して笑った。「……なにそれ。こんな夜の後に、朝ごはんの話?」
「いいだろ、別に。生きてるんだから、腹は減る。当たり前だ」
「……そうだね」あいつは笑いながら、指でそっと涙をぬぐった。「うん。……食べに行こう。みんなで」
みんなで。その一言が、俺には何より嬉しかった。ほんの少し前まで、この地下で、たった一人で世界と向き合っていたやつが、今、当たり前みたいに「みんなで」と言う。その変化が、この長い夜の、いちばんの収穫だったのかもしれない。
地上へ続く階段を、俺たちは並んで上った。詩織が先を行き、双子が灰原を挟むように歩く。背に負った下級生の子の、規則正しい寝息が、耳元で聞こえた。この子も、じきに目を覚ます。今夜のことは、何も覚えていないだろう。それでいい。忘れて、また、なんでもない毎日に戻ればいい。その「なんでもない毎日」を守るために、この夜があったのだから。
長い夜は明けた。だが、本当の物語はたぶん、まだこの先に待っている。白い仮面。先代。あの巨大な仕組み。何ひとつ、終わっていない。それでも今朝だけは、何も考えずに、あたたかいものを腹に入れよう。生きて、朝を迎えられた。それを、ちゃんと喜んでいい気がした。灰原が、隣で、小さくあくびをした。その、ひどく人間らしい仕草に、俺は思わず笑ってしまった。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




