第51話 それでも、消さない
【葵side】
力が溢れていく。指先から、腕から、全身から。世界の"設定"を直接書き換えていく、あの感覚。久しぶりの、そしていちばん恐ろしい、全能の感覚だった。
「そうだ」白い仮面が恍惚とした声で言った。両手を広げ、まるでその光を浴びるように。「それでいい。消してしまえ。君を苦しめるすべてを。それこそが君の本当の望みだったはずだ。ずっと、そうしたかったのだろう。もう、いいんだよ。楽になって」
消せる。この男を。この施設を。この忌まわしい記憶を。私自身を。何もかもまとめて、なかったことに。あの日、七つの私がいちばん大切なものごとこの世から拭い去ったように。今度は私が、私の苦しみそのものを、拭い去るのだ。
「……できる」
私は掠れた声で呟いた。それは本当だった。今の私になら、できる。世界の一部を丸ごと削除することが。抗う者はいない。抗うという選択肢ごと、消えていくのだから。
「そう、それでいい」白い仮面が、私の指先の光を見て、囁いた。追い詰めるのではなく、そっと背を押すように。「あの日と、同じだ。あのときの君も、正しいと信じて、迷わず振るった。今も、同じでいい。楽になれると信じて、振るえばいい。何も、難しいことじゃない」
あの日と、同じ。その言葉が、鋭く胸を刺した。図星だった。今、私がしようとしていることは、七つのあの日と、そっくり同じ形をしている。守りたい一心で、あるいは、楽になりたい一心で、世界をなかったことにする。あのときも、こんなふうに指先が軽かった。こんなふうに、自分の正しさを、疑いもしなかった。その果てに、私は、いちばん大切なものを消した。
――また、繰り返すのか。同じ過ちを。今度は、この学園ごと。あの子たちごと。指先の力が、その迷いに応えるように、一瞬、ぶれた。白い仮面が、それを見逃さなかった。「迷うな。迷いが、いちばん人を苦しめる。消してしまえば、迷いごと、消える」。甘い声だった。その甘さが、あの日の、無邪気な正しさと、同じ味がした。
力がさらに広がっていく。私を中心に、世界が白く灼けていく。ガラスが消え、壁が消え、輪郭という輪郭が端から静かに溶けていく。悲鳴すら上がらない。悲鳴を上げる時間ごと、削除されていくから。もう少しで。あと、ほんの少しで、すべてが「なかったこと」に――。
【双葉side】
(葵ちゃん、だめっ……!)
感覚共有の糸の向こうで、私は叫んでいた。地上の隅で、颯太と手を握り合って。声は届かない。分かっている。それでも叫ばずにはいられなかった。
あの、世界が消えていく感覚。前にもこの身を貫いた、あの途方もない静けさ。葵ちゃんが呑まれていく。あの男の言葉に。自分のいちばん昏い場所に。指先ひとつで世界を消せてしまう、その孤独に。
(颯太……! 私たち、なにか……!)
(だめだ、双葉。今あそこへ近づいたら、僕らも消える)颯太の声も震えていた。(でも、僕らにできることはある。叫ぶことだ。届かなくてもいい。葵ちゃんが一人じゃないって。それだけを伝え続けるんだ。最後まで)
私たちは叫び続けた。感覚共有の糸の限りを尽くして。葵ちゃん。帰ってきて。あなたの席は、まだあそこにあるよ。あのあたたかい食堂の、いつものテーブルに。冷めたポタージュも、言い合う私たちも、涼しい顔の詩織さんも、まっすぐなあの子も。ぜんぶ、まだあそこにある。だから。だから、消さないで。
颯太の手を、私はきつく握った。感覚共有の糸を通して、颯太の恐怖と、祈りが、私の中に流れ込んでくる。二人でひとつ。私たちにできるのは、これだけだ。力もない。あの場所へ駆けつけることもできない。ただ、信じて、呼び続けること。あの人が、私たちの声を、どこかで拾ってくれると。あの人には、帰る場所があるのだと。それだけを、心の底から、信じ続けること。
(葵ちゃんは、もう、一人ぼっちの掃除屋じゃないよ)私は、糸の向こうへ、囁いた。(私たちが、覚えてる。あなたが、どれだけ優しくて、どれだけ頑張ってきたか。だから、お願い。あなた自身のことも、なかったことにしないで)
【葵side】
世界が白く溶けていく。その、いちばん静かな中心で。
ふいに、いくつかの光景が脳裏をよぎった。
ぬるくなったポタージュの味。向かいでくだらないことを言い合う双子。涼しい顔で紅茶を淹れる詩織。少し離れた席で、まっすぐな声で体術のコツを聞くあの子。「崩れろよ」と笑ったあの子の顔。「私が誰なのかを思い出させて」と頼んだ私に、深く深く頭を垂れた詩織。
どれも、なんでもない光景だった。特別なことなんて、ひとつもない。ただ、あたたかかった。ずっと自分には許されないと思っていた、あたたかさ。日陰にいると決めた私が、いつのまにか、少しずつ手にしていたもの。屋上で「崩れろ」と言われたときの、胸の奥がほどけるような感じ。あの子が、私の全部を見て、それでも隣にいると言ってくれたときの、あの、泣きたくなるような温もり。
――帰る場所が、あった。
いつのまにか、私には帰る場所ができていた。ずっと、どこにも居場所なんてないと思い込んでいた、この私に。日陰にしかいられないと決めていた、私に。
もし今、全部を消したら。あの席も消える。あの子たちのなんでもない毎日も。私が日陰で守ろうとしてきた、すべての小さな灯りも。私が消したいのは、私自身の苦しみだ。それなのに、その巻き添えに、あの温もりまで消してしまうのか。あの子たちの明日まで、私のために、なかったことにするのか。
私の手が、止まった。
誰かに腕を掴まれたわけじゃない。叫びが届いたわけでもない。あの子たちの声は、ここまでは届いていない。ただ、私自身が気づいたのだ。私は、あの席を消したくない。私を苦しめるこんな世界の中にも、それでも消したくないものが、確かにある。この手で守りたいものが、まだ残っている。
「……それでも」
私は溢れかけた力を、ゆっくりと指先へ引き戻した。歯を食いしばって、暴れる濁流を両手で手繰り寄せるように。溶けかけていた世界の輪郭が、少しずつ元へ戻っていく。ガラスが。壁が。天井が。「なかった」が、またひとつずつ「ある」へと戻っていく。
「……それでも、消さない」
私ははっきりと言った。他の誰でもない、私自身の意志で。
「なぜだ」白い仮面の声が、初めて大きく揺れた。広げていた両手が、行き場を失って宙で止まる。「なぜ消さない。楽になれるのに。その力があるのに。……君は私と同じはずだ。同じ力を持ち、同じ孤独を、同じ罪を抱えている。ならば同じ答えに辿り着くはずだ。辿り着かないのは、おかしい」
「辿り着かないよ」私は力を完全に鎮めて、まっすぐその人を見た。もう指先は震えていなかった。「あなたと私は同じ力を持ってる。同じ苦しみも知ってる。……でも、選ぶものが違うの。あなたは苦しみを消すために力を使う。私は苦しみごと抱えて生きる。消さないことを選ぶ。それが、どんなにつらくても」
消してしまえば楽になる。それは本当だ。でも消さない。この罪も、この記憶も、この痛みも、全部抱えたまま生きる。それがあの子への、たったひとつの償いだから。忘れて、なかったことにして、楽になることは、あの子をもう一度この手で殺すことだから。
「私は、あの子を覚えてる」私は言った。声が震えないように。「消さない。あの子がいた事実も。私が消してしまった事実も。全部覚えたまま、生きていく。……それが、あなたにはできなかったことでしょう」
白い仮面はしばらく微動だにしなかった。それからゆっくりと、一歩後ずさった。まるで初めて、理解できないものを目の当たりにしたかのように。
「……君は」その声には、もう憎しみも羨望もなかった。ただ底の知れない困惑だけがあった。「私がなれなかったものに、なったんだね。……あの人が君を、いちばん後の弟子に選んだ意味が。今、少しだけ分かった気がするよ。悔しいが」
その姿がゆらりと歪んだ。逃げる。私はとっさに手を伸ばしかけて、やめた。追えば、また力を使うことになる。今この夜に私が選んだものを、自分の手で汚すことになる。だから、追わない。
白い仮面は消える寸前、静かにこう言い残した。「あの人を探すといい。……君になら、あの人の本当の望みが分かるかもしれない。私にはとうとう分からなかった。あの人の、いちばん奥だけは」
そして、その姿は痕跡ひとつ残さず掻き消えた。
後には、深い静けさだけが残った。私はその場に、ゆっくりと崩れ落ちた。今度は力に呑まれてでは、なかった。ただ深く疲れて。全身の力が、根こそぎ抜けていた。
冷たい床に手をついて、私は、ほんの少しだけ泣いた。消してしまった、あの子のために。まっすぐ私を見て、消えていった、あの小さな手のために。そして――消さないと、自分で選べた、今の私のために。長いあいだ、私は自分を、消すことしかできない怪物だと思ってきた。でも今夜、私は、消さないことを選べた。それは、七つのあの日から、ずっとできなかったことだった。
あの子は、戻らない。それは、変わらない。私の罪も、消えない。でも、私はもう、逃げない。忘れない。なかったことにも、しない。あの子がいた事実を、消してしまった事実を、この胸に抱えて、生きていく。それが、私にできる、たったひとつの弔いだから。涙を、手の甲でぬぐって、私はゆっくりと顔を上げた。まだ、夜は明けていない。でも、いちばん昏いところは、もう、通り過ぎた気がした。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




