第50話 いちばん昏い場所
「では、見せてあげよう」白い仮面が片手をゆっくりと持ち上げた。「言葉で分からないなら、事実で。君がいちばん見たくないものを。君の本当の、いちばん古い記憶を、ね」
その指先が宙で小さく円を描いた。とたんに、私の頭の奥で、固く封じられていた何かがこじ開けられる音がした。錆びた鍵が無理やり回されるような、鈍い痛み。視界が、白く明滅する。
――白い光。焼けるような使命感。目の前に悪い大人たちがいる。私を、あの子を、実験の道具にしてきた大人たち。許せない。消してしまえ。世界からなかったことにしてしまえ。私は幼い手で力を振るう。迷いなく。これは正義だと信じて。疑いもせず。
だが、その大人たちの後ろに、小さな影が隠れていた。私がこの世でいちばん守りたかった、あの子。悪い大人が盾にしていたのだ。気づいたときには、もう遅かった。白い光がすべてを呑み込んでいた。悪い大人も。あの子も。私が守りたかったもの、ぜんぶをまとめて。
消える寸前、あの子は、私のほうを見た。怖がってはいなかった。ただ、不思議そうに、まっすぐ私を見ていた。まるで、私を信じきっているみたいに。その小さな手が、こちらへ伸びかけた。助けを求めるためじゃない。たぶん、私に、触れようとして。その指先が、光に溶けて、消えた。声も、温もりも、まばたきひとつの間に、世界から引き算された。後には、何も残らなかった。血の一滴も、叫びのひとかけらも。ただ、完璧な、静けさだけ。
私は、その静けさの中に、一人で立っていた。自分が何をしたのか、しばらく、分からなかった。分かったとき、私は、声も出せなかった。取り返しがつかない、という言葉の本当の意味を、七つの私は、その場所で知った。なかったことにできるはずの私の力でさえ、一度消したその子だけは、どうやっても、戻せなかった。
あのとき、私はただ、守りたかっただけだった。あの子を。実験に怯える、ほかの子たちを。誰も傷つかない場所を、この手で作れると、本気で信じていた。悪い大人さえ消せば、みんなが笑って暮らせるのだと。その願いは、間違っていなかったはずだ。ただ、やり方を、何も知らなかった。力の使い方も、その代償も。七つの私は、優しさと万能を、取り違えていた。守りたいという気持ちが強いほど、正しく振るえるのだと、思い込んでいた。……そして、いちばん守りたかったものを、その優しさで、消した。あの瞬間からずっと、私は、自分の優しさが、いちばん怖い。それが、いつまた、大切なものを消すか分からないから。だから私は、笑わないと決めた。誰も、そばに置かないと決めた。許されようとすることを、自分に禁じた。それが、あの子に対して、私ができる、たったひとつのことだと思っていた。
あの瞬間の、世界の静けさ。音が、色が、温もりが、根こそぎ引き算された、あの完璧な無。私はそれを思い出した。いや、思い出させられた。ずっと蓋をして、見ないふりをしてきた、本当の記憶を。
「あ……ああ……」
膝から崩れ落ちた。狐面の下で、呼吸が浅く速くなっていく。そうだ。私は確かに、この手で消したのだ。あの子を。私のたった一人の。誰に利用されたのだとしても、この手があの子を消した。その事実だけは、どうやっても動かせない。動かしてはいけない。
「思い出したかい」白い仮面が優しく囁いた。開いたばかりの傷口に、そっと塩を塗り込むように。「そして、これが本題だ。その罪に耐えきれず、君は自分でその記憶を、都合よく作り変えた。普通の家で、あの子と幸せに暮らしていた、と。現実から逃げたんだよ。書き換えたのは他の誰でもない。君自身だ、灰原葵。君はずっと、自分に嘘をついてきた」
私自身が。私の記憶を。逃げるために、書き換えた。その事実が、最後の逃げ場さえ私から奪っていった。誰かに書き換えられたのなら、まだ私は被害者でいられた。でも違った。私は自分の犯した罪から、自分の手で必死に目を逸らし続けていたのだ。何年も。何年も。一枚の嘘の記憶を、宝物みたいに握りしめて。
――本当に、私が書き換えたのだろうか。
ふと、そんな疑いが、頭の隅をよぎった。私の記憶には、そもそも、空白が多すぎる。あの温かい家の日々も、七つのあの日の前後も、輪郭が、どこか曖昧だ。自分で塗り潰したのか。それとも、誰かに塗り潰されたのか。書庫で見た、あの几帳面な字。私の名の隣に並んでいた、あの子の名。分けてはならない、と書き添えた、あの手。……いや、と私は頭を振った。今、それを考えても、答えは出ない。この男の言うことが、どこまで本当かも、分からない。ただ、ひとつだけ、確かなことがある。原因が何であれ、経緯がどうであれ。あの子を消したのは、この手だ。それだけは、誰にも、書き換えられない。だから、私が背負う。その一点だけは、揺るがない。
全身から、力が抜けていった。膝が、床の冷たさを感じている。それすら、遠い。私が抱えてきた罪は、確かにあった。でも、それを直視する勇気は、私になかった。だから、優しい嘘で塗り固めた。温かい家。なんでもない日々。そんなものは、最初から、どこにもなかったのに。私は、あの子を消しただけじゃない。あの子のいた本当の日々ごと、自分の都合で、書き換えてしまったのだ。二度、あの子を、なかったことにした。
「泣いても、いいんだよ」白い仮面の声が、優しく降ってくる。まるで、慈悲深い神様みたいに。「君は、じゅうぶん、苦しんだ。もう、堪えなくていい。あの人の教えなんて、忘れてしまえばいい。堪えろ、なんて。あんなものは、君を縛る呪いだ。君は、自由になっていいんだ」
その声は、甘かった。どこまでも、甘かった。ずっと張り詰めていた糸が、ふっと緩みそうになる。もう、いいのかもしれない。こんなに苦しいなら。こんなに、報われないなら。私は、うつむいたまま、ゆっくりと目を閉じた。
闇の中で、あの子の、消える寸前の顔が浮かんだ。まっすぐ私を見て、伸ばされた、小さな手。あの手は、最後まで、私を信じていた。私が助けてくれると、疑いもせずに。……その信頼を、私は裏切った。一度目は、この力で。二度目は、記憶を書き換えて、なかったことにして。もし今、この世界ごと全部を消したら。それは、三度目の裏切りになる。あの子がいたことも、私が犯した罪も、ぜんぶ、無に帰す。それは、いちばん楽で、いちばん、卑怯な逃げ方だ。
だめだ。目を閉じたまま、私は奥歯を噛んだ。この男の声に、呑まれてはいけない。甘さに、溺れてはいけない。私は、私の罪を、覚えていなければならない。それだけが、消えたあの子と、私を繋ぐ、たったひとつの糸なのだから。忘れることは、あの子を、この世から本当に消すことだ。それだけは、絶対に、してはいけない。
だが、体は言うことを聞かなかった。あまりにも疲れていた。心が、限界だった。指先に集まった力が、私の意志とは無関係に、勝手に世界を溶かし始める。止めなきゃ。止めなきゃいけないのに。頭の芯が、白く霞んでいく。
「かわいそうに」白い仮面は囁き続ける。その声が、頭の芯にどろりと絡みついてくる。「そんなに苦しいなら、いっそ全部消してしまえばいい。この施設も、私も、その忌まわしい記憶も、この世界そのものも。君にはそれができる。指先ひとつで。全部なかったことに。そうすれば、もう二度と苦しまなくて済むよ」
消してしまえ。その言葉が、いちばん弱った私の心の、いちばん柔らかい隙間に、するりと入り込んできた。
そうだ。消してしまえば楽になる。この罪も、この記憶も、この身を裂くような痛みも。全部なかったことにできる。私にはその力がある。あの日と同じように。ただ指先を動かすだけで。もう、堪えなくていい。もう、覚えていなくていい。
私の指先に、力が集まり始めた。世界の輪郭が、じわりと溶け始める。ガラスの筒が。剥き出しの壁が。冷たい天井が。「ある」が「なかった」へと、書き換わろうと――。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




