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無能を演じる必要悪 〜正義の勇者が壊した世界を、私はまた黙って直す〜  作者: なち
第3部 交わらぬ責任

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第49話 交わらない責任

【葵side】


 「君は、思い込んでいる」白い仮面は壇上をゆっくりと歩きながら言った。革靴の音が、静かな施設に、こつ、こつ、と響く。「自分が正義感に燃えて力を振るい、その結果いちばん大切なものを消してしまった、と。だから罰を受け続ける。日陰で償い続ける。……美しい物語だ。だが、それは君を縛るための都合のいい鎖に過ぎないよ」


 「……どういう、意味」


 「考えてごらん」その人はこちらへ一歩近づいた。「七つの子どもが、たった一人の意志で、あれほどの力を振るえると本当に思うかい。誰がその引き金を引かせた。誰がその状況を、そっくりお膳立てした。……君は利用されたんだよ。あの日、君は誰かの描いた設計図の中で、ただ動かされていただけだ」


 その言葉は、甘い毒のように私の胸へ染み込んできた。私は悪くなかった。私はただ利用されただけ。そう思えたら、どれだけ楽だろう。この、背骨を軋ませるほど重い罪を、下ろせたら。ほんの一瞬、私の心が、その甘さに傾いた。危ういほど自然に。


 でも私は、奥歯を噛んで踏みとどまった。


 「……仮に、そうだとして」かろうじて声を絞り出す。「それでも、消したのは私の手よ。引き金を引いたのが誰であれ、あの子をこの世から拭い去ったのは、この手。それは変わらない。誰かのせいにして逃げるわけには、いかないの」


 「なぜだ。なぜそこまで自分を許さない」白い仮面の声に、初めて苛立ちに似た色が混じった。「君は世界を書き換えられる力を持っている。なのにその力を、自分を罰するためだけにすり減らしている。もったいない話だ。その力があれば、世界をもっと良い形に設計し直せる。綻びのない、誰も理不尽に泣かない、完璧な世界に。私と来ないか。二人でなら、それができる」


 その誘いには、たしかに魔力があった。綻びのない世界。誰も私のように、大切なものを失わずに済む世界。それを作れるなら。……でも、と私は思う。それは、誰かの痛みを「必要な犠牲」の一言で塗り潰した先にある世界だ。あの子を、数字のひとつに変えてしまう世界だ。


 「断る」私ははっきりと言った。「あなたのやり方は間違ってる。子どもを駒にして、痛みを必要な犠牲で片づけて。それは責任じゃない。ただ、一人ひとりの痛みから目を逸らしてるだけよ。……あなたこそ逃げてる。いちばん向き合うのがつらいものから、ずっと」


 「向き合う。一人ひとりと。何十億もいる人間の、その一人ひとりと」白い仮面は鼻で笑った。「不可能だよ。だから私は上から設計する。君は下で一つずつ拾う。どちらも全部は救えない。だが私のやり方のほうが、遥かに多くを救える。単純な数の問題だ。君の引き受けるは自己満足で、私の設計するは冷徹な合理だ。どちらが多くの命を救う。答えは明らかだろう」


 「たとえばだ」その人は、並ぶ筒のひとつを、指で示した。「この子は、外の世界では、ただ理不尽に踏みつけられて死んでいく定めだった。だが私が拾い、力を与え、役割を授けた。この子の犠牲の上で、より多くの秩序が保たれる。名もなく踏みにじられて消えるより、意味のある一部品になる。……それの、どこが不幸だ。私は、捨てられる命に、居場所を与えているんだよ」


 その理屈は、恐ろしいほどなめらかだった。反論の隙を、あらかじめ塞ぐように組み立てられている。この男はきっと何百回も、自分自身にこの言葉を言い聞かせてきたのだ。自分は正しいと。これは救済なのだと。だからこそ揺るがない。悪人よりも、たちが悪い。心の底から善だと信じている者ほど。


 「居場所じゃない」私は、静かに、けれど、きっぱりと言った。「あなたが与えてるのは、番号よ。名前を奪って、番号を振って。この子がこの子である理由を、ぜんぶ削ぎ落として。……それは、救ってるんじゃない。作り変えてるだけ。あなたにとって都合のいい、部品に」


 「昔の私は、君と同じだった」白い仮面が、ふいに言った。声から、余裕が消えていた。「一人ずつ、救おうとした。目の前の子を、片っ端から、手を伸ばして。……その結果が、どうだったと思う。抱えきれずに、共倒れだ。救った数より、救えずに死なせた数のほうが、ずっと多かった。私の情は、いちばん多くの子を、殺したんだよ」


 初めて、この男の声に感情らしきものが滲んだ。それは遠い痛みの残響のようだった。


 「だから私は決めたんだ。情を捨てると。上から、仕組みで救うと。君の言う『一人の痛みの前で立ち止まる』やり方は、私が捨てた道だ。あれは優しさじゃない。ただの自己満足で、いちばん多くを見殺しにする無責任だ。……私はそこから逃げなかった。だから、管理を選んだ」


 その言葉に、私は言い返せなかった。この男もまた、かつて誰かを救おうとして救えなかったのだ。その痛みから、まったく逆の答えを選んだだけ。私と同じ場所から出発して、正反対の場所へ。だからこそ話が通じない。だからこそ、他人事に思えない。


 交わらない。どこまでいっても、この男と私の言葉は交わらない。それは痛いほど分かった。数だけを見れば、この男の言うことにも筋は通っている。それでも――。


 「数じゃないの」私は言った。腹の底から絞り出すように。「あなたが必要な犠牲って呼んで消していく、その一人に、名前があった。笑い方があった。好きな食べ物があった。それを数字で割り切れると思ってる時点で、あなたはいちばん大事なものを、もう見失ってる。……私は割り切らない。どんなに非効率でも。たった一人の痛みの前で、立ち止まり続ける。それが私の、責任の取り方よ」


 言いながら、私は思っていた。この答えは、たぶん、正しくはない。この男の言うとおり、私のやり方では、救える数は少ない。全部は、救えない。それでも、私は、この非効率を、手放せない。たった一人を数字にした瞬間、私は、あの子を数字にすることになるから。あの子の死を、"必要な犠牲"の一例に、してしまうから。それだけは、できない。世界のどんな合理より、私にとっては、そのほうが、ずっと大事だった。


 「君は、結局、感傷から抜け出せないんだね」白い仮面は、静かに言った。憐れむような声だった。「その一人への執着が、君を、いつまでも日陰に縛りつける」


 「そうよ」私は、まっすぐ言い返した。「私は、感傷を、手放さない。それが、人でいるってことだと思うから。……あなたは、それを捨てて、何になったの。効率のいい、なに?」


 でも、と私は思う。この男を、ただ間違っていると切り捨てることも、私にはできなかった。だって、私も、同じ場所に立っていたことがあるから。悪を消せば世界は良くなると、信じて疑わなかった、あの頃。私も、目の前の一人より、大きな正義のほうを、選ぼうとしていた。この男は、あのときの私が、もし止まらずに進み続けたら、辿り着いていたかもしれない場所だ。だからこそ、恐ろしい。他人事に、思えない。


 それでも、私は、あの日、止まった。正確には、止まらざるを得なかった。いちばん大切なものを、この手で壊して。その痛みが、私を、この男とは違う道へ、引き戻した。皮肉なものだ。私の犯した、取り返しのつかない罪が、私を、怪物になりきることから、救っていたのかもしれない。


 「あなたには、"止まる痛み"が、なかったのね」私は、静かに言った。「だから、そのまま、行けてしまった。……かわいそうな人」


 その言葉に、白い仮面が、初めて、動きを止めた。しばらく黙っていた。それからぽつりと、こぼすように言った。「……本当に、あの人に似てきたね。君は」。その声には、憎しみとも羨望ともつかない、複雑な響きが確かにあった。まるで、遠い昔に自分が捨ててきた道を、他人の背中に見てしまったような。

お読みいただきありがとうございました。

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次話は明日21時ごろ更新予定です。

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