第47話 破調
【葵side】
鉄の扉の向こうは、これまでのどの場所より明るかった。その白々とした明るさが、かえっておぞましい。清潔に整えられた地獄というものが、この世にはあるのだと、私はそこで初めて知った。
照明の下にガラスの筒がずらりと並んでいる。紫の液体に満たされ、子どもたちが眠らされていた。管に繋がれ、番号を振られている。まるで倉庫に積まれた在庫のようだった。そのいちばん手前の筒に見覚えのある顔を見つけて、私は息を止めた。消えた、あの下級生の子だ。あどけない寝顔が、青白い液の中で静かに揺れている。
「待っててね」私はガラスに手のひらを当てた。壊すのは簡単だ。でも液ごと乱暴に引き出せば、この子の体に障る。私は頭の中で筒の構造だけをそっとほどいていった。継ぎ目を、留め具を、ひとつずつ。やがて液が音もなく抜けた。ガラスがひらく。私はぐったりしたその子を抱きとめた。細い体は驚くほど軽い。息はある。胸がかすかに上下している。よかった。まだ間に合う。
顔を上げて、私は言葉を失った。手前の一本だけじゃない。奥へ、奥へと、同じ筒が果てしなく並んでいる。数えるのも嫌になるほどの数だ。そのひとつひとつに、子どもが沈んでいた。眠らされ、番号を振られ、明日を奪われて。ここは、以前に見た施設よりもずっと大きい。もっと組織立っていて、もっと冷たい。私が終わらせたと思っていたものは、根の一本を刈っただけだったのだ。本体はこんなにも深く、こんなにも広く、まだ生きていた。
胸の奥が、燃えるように熱くなった。この子たちは、誰かの子どもだ。名前があって、帰る家があって、待っている人がいる。それを番号で管理して、道具に変えて。許せるはずがなかった。私は抱いた子をそっと床に横たえ、狐面の奥で深く息を吸った。全員は、一度には運べない。それでも、と思う。今夜ここへ来たのは、この根そのものを断つためだ。目の前の一人を助けるだけでは、また同じことが繰り返される。だから、いちばん奥にいるこの仕組みの主を、必ず引きずり出す。
「見事な手際だ」
声に顔を上げると、あの白い仮面が奥の壇上に立っていた。まるで私がここへ来るのを、ずっと前から待っていたかのように。落ち着き払った佇まいだった。
「だが、一人助けて、それで満足かい」その人は両手を広げてみせた。ずらりと並ぶ無数の筒を示すように。「ここには、あと何十人もいる。全部、助けられるのかな。君のその優しい手で。抱えられるのは、せいぜい一人か二人だろうに」
その言葉を合図にしたように、施設の空気が変わった。ガラスの筒のいくつかが内側からひとりでに開いていく。中から、うつろな目をした子どもたちが、ゆらりと這い出てきた。焦点の合わない瞳。青白い肌に、紫の血管が蛇のように浮いている。薬で作り変えられ、意志を奪われた駒だ。かつて誰かの子どもだったものたちが、緩慢に私のほうへ歩き出した。
「さあ、どうする」仮面の奥でその人は笑った。「この子たちも、君が守りたい子どもだ。だが向かってくる。傷つけずに身を守れるかな。君はこの子たちを一人も消せない。壊せない。……その優しさが、今夜、君の首を絞めるんだよ」
卑劣な、それでいてよく練られた手だった。私はこの子たちを消せない。傷つけることさえできない。それなのに向こうは容赦なく迫ってくる。私は意識のない下級生を胸にかばいながら、じりじりと後ずさった。伸びてくる無数の手。爪。うつろな、それでも確かな殺意。抱えたこの子を守るだけで、精一杯だった。
【蓮side】
その時、背後の鉄扉が外から蹴破られた。
「灰原ッ!」
俺だった。詩織と双子の辿った気配を頼りに、地下を全力で駆け抜けてきた。目の前の光景に、一瞬、息が止まる。ガラスの筒。うつろな子どもたち。その真ん中で意識のない子をかばって追い詰められた、狐面の灰原。理解が追いつかない。だが立ち止まっている暇なんてなかった。
「そっちの子たちは、俺が引き受ける! 灰原はそいつに集中しろ!」
叫んで、俺はうつろな子どもたちの群れの前に身を投げ込んだ。傷つけるわけにはいかない。この子たちも被害者だ。だが止めなきゃいけない。伸びてくる腕をいなす。受け流す。押し戻す。陸に叩き込まれた体術が、こういう混戦でこそ生きた。力ではなく流れだ。一人を優しく組み伏せ、また一人の勢いを殺して床へ導く。それでも数が多すぎた。一人を押しのければ二人が伸しかかってくる。じりじりと、俺も追い詰められていった。
その時、うつろな子どもの一人が鋭い爪を振り上げた。俺の背後で倒れている、別の子どもに向けて。間に合わない。そう思った瞬間、体の奥であの熱が爆ぜた。
守る。その一念だけが頭の中を白く灼いた。俺は身を投げ出してその子を腕の中にかばう。金色の光が腕に集まっていく。振り下ろされた爪を、その腕で受け止めた。骨まで軋むような衝撃が走る。それでも今度は消えなかった。数秒で潮が引くように失われる、あの頼りない熱じゃない。守りたいと願い続けるかぎり、その光は俺の腕に灯り続けた。
「……効いてるじゃねえか。陸の特訓」
俺は歯を食いしばって笑った。まだ弱い。まだ全然足りない。それでも今この一瞬だけは、俺の意志でこの力を灯せている。守りたいものの前で、倒れずに立ち続けることができている。それがどうしようもなく嬉しかった。かつて数秒で消えた熱を、こうして掌に留めていられる。この一歩を、俺はどれだけ欲しがってきたか。
受け止めた爪を押し返し、俺はその子をそっと床へ導いた。眠らせるように、力を抜いて。傷つけずに止める。それだけを考える。次の一人が来る。横から、背後から。俺は身をひねってかわし、腕をとって、勢いを殺す。汗が目に流れ込む。息が上がる。それでも、灯った熱は、まだ消えていなかった。守ると決めているかぎり、体が応えてくれる。ずっと、これが欲しかった。肝心なときに切れない力が。誰かを、最後まで守り抜ける力が。
脳裏に、いつかの夢の断片がよぎった。届かなかった手。守れなかった、名前のない誰か。あの後悔を、俺はもう繰り返さない。今度こそ、この腕の中の子を、隣で戦うあいつを、一人も、こぼさない。その一念が、灯った熱を、いっそう強く押し上げた。俺は倒れかけた子どもたちの前に立ちはだかり、壁になった。ここは、通さない。
「灰原! 子どもたちは任せろ! お前は、行けッ!」
俺の声に、狐面がこくりと頷いたのが視界の端に見えた。頼む。お前の戦いをしてこい。こっちは俺が、なんとしても守り抜く。一人も、欠けさせない。今度こそ。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




