第44話 半分の荷物
【蓮side】
俺が灰原の異変に気づいたのは、朝の教室でのことだった。
いつもの席で、あいつはぼんやりと窓の外を見ていた。気弱なふりも忘れて。その横顔がひどく蒼白だった。まるで一晩中、どこか遠くをさまよってきたみたいに。誰も気づかない。だが俺には分かった。あいつが何か大きなものにぶつかって、揺れている。
昼休み、俺は屋上へ上がっていくあいつを追いかけた。
「灰原」
声をかけると、あいつはびくりと肩を震わせて振り返った。一瞬、気弱な仮面を作りかけて、やめた。俺の前ではもう演じても仕方がないと諦めたみたいに。
「……天音くん。追いかけてこないでって、言ったのに」
「言われてない。俺が勝手に追いかけてるだけだ」俺は隣に立ってフェンスにもたれた。「顔色、最悪だぞ。何があった」
あいつは少し黙って、それから力なく笑った。「……なんでもないよ」
「嘘つけ。なんでもない顔で、そんなに泣きそうなやつがいるかよ」
あいつの表情が揺れた。図星を突かれた子どもみたいに。俺はこれ以上踏み込むべきか迷った。あいつにはあいつのけじめがある。土足で踏み込んでいい場所じゃない。それでも放っておけなかった。あんな顔をして一人で立っているやつを、見ないふりできるほど、俺は器用じゃない。
「なあ、灰原。前に言っただろ。荷物を半分持つって」俺は静かに言った。「今すぐ全部話せとは言わない。でも一人で抱えて、そんな顔になるくらいなら。せめてその半分の、そのまた半分でいい。俺に預けてくれよ」
あいつはしばらく俺を見ていた。何かを言いかけてやめて、それからゆっくりと首を横に振った。
「……だめだよ、天音くん」その声は優しくて、そしてどこまでも遠かった。「これは私の荷物なの。あなたに預けたら、あなたまでこれを背負うことになる。あなたは日向にいるべき人でしょう。私みたいになっちゃ、いけない」
「なっても、いい」俺は即答した。「お前が背負ってるものを、俺も背負う。それで俺が日陰に落ちるなら、それは俺が選んだことだ。お前のせいじゃない」
「……ばかね」あいつは泣きそうな顔で笑った。「そういうところが、いちばんずるいんだよ」
◇
風が、二人の間を通り過ぎていった。しばらく、どちらも黙っていた。
「……なあ」沈黙を破ったのは、俺のほうだった。「俺さ、時々、思い出せない夢を見るんだ。誰かを、守れなかった夢。顔も名前も思い出せない。ただ、届かなかった手の感触だけが、残ってる。……たぶん、俺は前に、同じ後悔をしてる。だから、今度こそって、いつも焦ってた」
あいつが、そっとこちらを見た。俺は、フェンスの向こうの空を見たまま続けた。「お前を見てると、なんでか、その夢を思い出すんだ。放っておいたら、どこか遠くに行っちまいそうで。……だから、追いかける。理屈じゃないんだ。悪いな、しつこくて」
あいつは、少し驚いた顔をして、それから、ふっと肩の力を抜いた。「……天音くんも、抱えてるんだね。私だけじゃ、なかったんだ」
「まあな。だから、分かるんだよ。一人で抱える苦しさが」俺は苦笑した。「といっても、俺のは、思い出せない後悔だけどな。お前のは、ちゃんと覚えてる分、ずっと重いんだろ」
「……どうだろう」あいつは、フェンスの向こうを見たまま、小さく呟いた。「覚えてるつもりの過去が、本当に自分のものなのか、最近、分からなくなってきたの。もしかしたら、私は、いちばん大事なことを、間違って覚えているのかもしれない。……そう考えると、自分が、自分じゃないみたいで」
俺には、その言葉の重さの、半分も分からなかっただろう。それでも、あいつがそれを口にできたことが、俺には嬉しかった。ずっと一人で、誰にも言えずに抱えてきたものを、ほんの少しでも、外に出せた。それだけで、今日ここに来た意味があった。
「なあ」俺は言った。「お前が何を覚えてようが、忘れてようが、間違ってようが。今、ここにいるお前が、あの下級生たちを守ろうとしてるのは、本当だろ。俺が知ってる灰原は、そいつだよ。過去がどうあれ、それだけは、揺るがない」
あいつは、はっとしたように俺を見た。その目が、かすかに潤んでいた。「……そっか」小さな声だった。「そう、だね。……ありがとう」
あいつは、しばらく黙って、それからぽつりと言った。「……私ね。自分の過去が、思ってたのと違うかもしれないって、気づいたの。ずっと信じてきたことが、ぜんぶ。足元が崩れていくみたいで、それが、怖い」
それは、あいつが初めて俺に見せた、素の弱さだった。俺は気の利いた言葉を探して、結局、何も見つけられなかった。ただその隣に立って、一緒に同じ空を見上げることしかできなかった。
だがそれでいい、とも思った。あいつが俺の前で、ほんの少しでも弱音を吐けた。それはたぶん、これまでのあいつにはできなかったことだ。守るとか守られるとか、そういうのじゃない。ただ同じものを見て、一緒に途方に暮れる。そういう並び方も、あるのかもしれない。俺たちの距離は、まだ遠い。それでも今、ほんの一歩だけ近づいた気がした。
「……崩れたら」俺は言った。「その時は、俺が下で受け止める。だから安心して、崩れろよ」
あいつは目を丸くして、それから今度は少しだけ、本当に笑った。「変なの。崩れろ、なんて言う人、初めて」
「そうか。じゃあ、俺が一人目だな」俺も笑った。「覚えとけよ。お前が崩れていい相手が、この世に一人はいるってこと」
あいつは、何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ、俺のほうへ体を傾けた。触れるほどじゃない。指一本分の距離。それでも、拒まれていた壁が、ほんの少しだけ、低くなった気がした。屋上の風が、二人の間を、ゆっくりと通り過ぎていく。昼休みの終わりを告げる予鈴が、遠くで鳴った。あいつは、名残惜しそうでもなく、けれど、来た時よりは少し軽い足取りで、階段のほうへ歩き出した。
その背中を見送りながら、俺は、拳を握った。あいつが向かおうとしている場所が、どれだけ昏いのか、俺には想像もつかない。だが、あいつが戻ってこられる場所を、俺は守る。この日向を。あいつが、ここに帰ってきたいと思えるように。
その笑顔を見て、俺は決めた。もっと強くなる。こいつが本当に崩れ落ちてきた時、その全部を受け止められるように。恋だの何だのじゃない。ただ、こいつを一人にしたくない。その一心だけが、今の俺の背骨になっていた。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




