第43話 覚えのない、記憶
【葵side】
その手がかりは、意外なところに転がっていた。
救い出した子どもたちの、薬に沈む前の記憶。その断片を辿るうちに、私はいくつもの記録がある一点へ収束していくのに気づいた。この学園が建つずっと前、この土地には別の施設があったのだ。子どもを集め、力を選別し、育てるための、いちばん古い施設が。
夜、私は一人でその古い記録の眠る書庫へ潜り込んだ。黴と埃のにおいが鼻の奥を刺す。ランプの灯りを頼りに、脆くなった頁を一枚ずつめくっていった。誰にも渡せない秘密が、この紙の海のどこかに沈んでいる。そんな予感が、指先を急かした。
棚の奥、鍵のかかった抽斗を、私は力ずくでなく、そっと開いた。金属の構造を、頭の中でほどくように。中から出てきたのは、革の表紙の、古い台帳だった。表には何も書かれていない。だが、めくった瞬間に、私は息を呑んだ。
いちばん古い被験者の名簿。そのいちばん最初の頁に、幼い子どもたちの名が、几帳面な字で連ねられていた。その中に――私の知っている名前があった。いや、知っているという言い方は正しくない。
名簿の上のほうに、私自身の名があったのだ。灰原葵。まだ六つか七つの頃の。そしてその隣にもう一つ、私が決して忘れられない、けれどもう二度と口にできない、あの子の名が並んでいた。
指先が震えた。私はこの施設のことを、何ひとつ覚えていない。私の記憶では、私はごく普通の家であの子と暮らしていた。ささやかで温かい、なんでもない日々。それがある日、私の力ですべて壊れた。私の記憶は、そういう形になっている。
でもこの名簿が本当なら。私とあの子は、生まれたときからこの施設の被験者だった。あの温かい日々の記憶は、いったい何だったのか。
(……私の、記憶と違う)
背筋が冷たくなった。どちらかが嘘だ。私の覚えている過去か、この記録か。どちらかが書き換えられている。そしてもし、私の記憶のほうが書き換えられているのだとしたら。それをできる者は、この世にそう多くない。私と同じ力を持つ者だけだ。あの白い仮面。あるいは――。
私は頁の几帳面な字を、指でなぞった。右上がりの、とめ、はね。この字を、私は隣で何度も見てきた。私に力の手綱の握り方を教えてくれた、あの人の字だ。「力は、振るうためではなく、堪えるためにある」。口癖のようにそう言っていた、あの人の。
その名簿の、私とあの子の名の欄外に、同じ筆跡で、小さな書き込みがあった。掠れて、半分は読めない。だが、かろうじて読み取れた一言に、私は動けなくなった。『この二人は、分けてはならない』。
どういう意味だろう。分けてはならない。あの人は、私とあの子を、守ろうとしていたのか。それとも、別の意図があったのか。分からない。分からないことが、こんなにも怖い。あの穏やかな人が、なぜ、子どもを実験台にする施設の記録に、名を連ねているのか。共犯者として、なのか。それとも、内側から何かを守ろうとした、たった一人の抵抗者として、なのか。
台帳の後ろのほうには、被験者たちのその後が、淡々と記されていた。適性あり。要観察。処分済み。まるで品物の管理台帳のように、子どもたちの運命が、記号で分類されている。私は、吐き気をこらえて頁を繰った。この一つ一つが、誰かの人生だ。名前があって、笑い方があって、好きな食べ物があった、生身の子どもだ。それを、こんな符牒で片づけて。
その中に、一枚の古い写真が挟まっていた。色褪せて、端が反り返っている。写っているのは、幼い子どもたちの列。その後ろに、一人の大人が立っていた。顔の部分だけが、なぜか、丁寧に塗り潰されている。誰かが、この人物の顔を、意図的に消したのだ。だが、その立ち姿に、私は見覚えがある気がした。穏やかで、少し猫背で、いつも子どもたちの後ろから見守っていた、あの人の。
胸が、苦しくなった。あの人は、ここにいた。子どもたちと一緒に。守っていたのか、監視していたのか、写真だけでは分からない。ただ、顔を消されているという事実が、この人が今、どういう立場に置かれているのかを、暗く物語っている気がした。
考えれば考えるほど、足元が崩れていくようだった。私は台帳を、そっと閉じた。今ここで答えを出そうとすれば、私は自分の中のいちばん大切な記憶ごと、崩してしまう。それだけは、まだできなかった。写真だけを、私はそっと制服の内にしまった。顔のない、あの人の姿を。
◇
書庫を出て、私は夜明け前の廊下に一人で座り込んだ。
これまで私は、自分の罪をはっきりと知っているつもりでいた。正義感で力を振るい、その結果いちばん大切なものをこの手で消した。だから罰を受け続ける。それが私の生きる意味だった。骨組みのように、私を立たせてきた前提だ。
でも、その前提そのものが揺らいでいる。私の過去は、私が信じてきたものと違うのかもしれない。私はなぜ、あの子を消してしまったのか。その理由すら、本当は私の思っているものと違うのかもしれない。あの男が、私の目の前で、記憶を歪めてみせたように。誰かが、ずっと昔に、私の過去そのものに、手を入れているのだとしたら。
その考えは、ほんの少しだけ、私を楽にした。私は悪くなかったのかもしれない、と。そう思いかけて、私はぞっとした。だめだ。楽になってはいけない。真実がどうであれ、あの子がもういないことだけは、変わらないのだから。理由を探して、罪を軽くしようとするのは、いちばん醜い逃げだ。
それに、と私は思う。もし私の記憶が書き換えられているのだとしたら。私が「守りたかった」と思っているあの温かい日々さえ、誰かに都合よく作られた、偽物なのかもしれない。そう考えると、足元が抜け落ちるようだった。私が、私を支えるために握りしめてきた、たったひとつの過去。それすら、私のものではないのかもしれない。罪も、記憶も、悲しみさえも。私は、いったい、どこまでが本当の私なのだろう。
懐にしまった、顔のない写真の硬さが、胸に触れた。あの人に、会わなければ。生きているのか、死んでいるのかさえ分からない、あの人に。そして、訊かなければ。あの日、本当は、何が起きたのかを。私という存在の、いちばん最初の一頁に、何が書かれていたのかを。
それでも、知らなければならない。たとえそれが私の中の何かを壊すとしても。書き換えられた記憶の下に、本当の私の過去が眠っているなら。私はこの目で、それを確かめなければならない。逃げるのはもう終わりにすると、決めたのだから。
私は立ち上がった。窓の外が白み始めていた。長い夜がまた一つ明けていく。けれど私の本当の夜は、まだ始まったばかりだった。名簿に並んでいた、あの子の名の温度だけが、いつまでも指先に残っていた。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




