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無能を演じる必要悪 〜正義の勇者が壊した世界を、私はまた黙って直す〜  作者: なち
第3部 交わらぬ責任

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第42話 これは、逃避か

【葵side】


 招待状に記された場所は、旧棟の最奥にある使われなくなった講堂だった。埃をかぶった長椅子が暗がりに整然と並んでいる。割れた高窓から月の光が斜めに差し込んで、宙を舞う塵を白く照らしていた。祭壇のあったらしい壇上に、その人は立っていた。


 のっぺりとした白い仮面。ゆったりとした黒い衣。年齢も性別も分からない。ただその佇まいだけで肌がびりびりと粟立った。私と同じにおいがする。世界を指先ひとつで書き換えられる者の、あの静かな気配だ。


 「よく来たね」くぐもった声が講堂に響いた。「逃げるかと思っていたよ。君は自分の過去から逃げるのが、とても上手だから」


 「答えを持っているんでしょう」私は狐面の下から声を放った。「私のいちばん古い記憶の。……渡してもらう」


 「渡す。くれてやるものじゃないよ」仮面の奥で、その人は笑ったようだった。「答えというのは、自分の足で辿り着いてはじめて意味を持つ。君はそれを人から施されようとしている。……ほら、そういうところだ。君はいつも、いちばん大事なことから目を逸らす」


 言葉に詰まった。図星だったからだ。私はこの男の撒いた餌にまっすぐ食いついて、ここまで来た。答えを差し出されるのを待つように。


 「君と私は、よく似ている」その人は壇上をゆっくりと歩きながら言った。「同じ力を持ち、同じように世界を書き換えてきた。違うのはたったひとつだ。君は隠れ、私は表に立つ。君は詫び、私は統べる。……君はそれを『引き受ける』と呼んでいるそうだね。悪はなくならない、だから誰かが引き受けるしかない、と」


 「……そうよ」


 「けっこうな覚悟だ。だが考えてごらん。君が引き受けて、消して、なかったことにする。そのたびに世界は何を学んだ。何も学ばない。同じ綻びがまた生まれ、君はそれをまた消す。永遠にだ。……それは責任じゃない。世界を変わらないままにしておくための、いちばん優しい先送りだよ。つまり――逃避だ」


 逃避。その言葉が、また胸の同じ場所を刺した。あの管理人も同じことを言った。まるで二人で示し合わせたように、私のいちばん柔らかいところを正確に突いてくる。


 「私は違う」その人は静かに続けた。「私は綻びごと、世界の仕組みを設計し直す。子どもを駒に育てるのもそのためだ。痛みはある。犠牲もある。だがそれを引き受けて、なお前に進む。それこそが力ある者の本当の責任だ。……隠れて泣いている君よりも、私のほうがよほど誠実だとは思わないかい」


 「思わない」私は即座に返した。腹に力を込めて、声が震えないように。「あなたのやってることは責任じゃない。ただの傲慢よ。誰かの人生を駒だなんて呼べる時点で、あなたはいちばん大事なものを、もう失ってる」


 仮面の奥の気配が、わずかに揺れた。それから、その人はゆっくりと片手を持ち上げた。指先が、宙で小さく円を描く。とたんに、私の頭の奥で、何かがぐにゃりと歪んだ。


 ――温かい部屋。誰かの笑い声。私の袖を握る、小さな手。その光景が、急に、遠くかすんでいく。輪郭が溶けて、色が抜けて、まるで最初から夢だったみたいに。


 「な……にを」私は、思わず膝をついた。あの記憶は、私の宝物だ。私が守ってきた、たったひとつの温もり。それが今、この男の指先ひとつで、揺らいでいる。


 「ほらね」その人は、手を下ろした。歪んだ記憶が、ゆっくりと元に戻る。「君の大事な記憶さえ、これほど脆い。……君は、自分が何を覚えているのか。それが本当に、君自身のものなのか。もう、確かめる術を持っていないんだよ。かわいそうに」


 背筋が凍った。この男は、私の記憶に触れられる。書き換えることも、たぶん、できる。だとしたら――私が信じてきた過去は、どこまでが本当なのか。


 「……あなたは、誰にその力を教わったの」私は、震えを押し殺して問うた。この力は、生まれつき使いこなせるものじゃない。誰かに、手綱の握り方を教わらなければ、いずれ自分を呑み込む。私が、あの人にそうしてもらったように。「あなたにも、師がいたはず。まさか――」


 「おや。そこに気づくとはね」仮面の奥の声が、初めて、わずかに温度を持った。愉悦のような、あるいは郷愁のような。「いい勘だ。私たちは、思っているより近い場所にいるのかもしれないよ。同じ根から伸びた、二本の枝のようにね。……だが、それを話すのは、まだ早い。君が自分の過去に辿り着いたとき、いやでも分かる」


 同じ根。その言葉が、氷の針のように胸に刺さった。まさか、この男も、あの人と。考えかけて、私は思考を止めた。今、確かめる術はない。乗せられてはいけない。この男は、私が知りたがるものを、少しずつ餌にして垂らしてくる。


 「面白い顔だ」その人は満足そうに言った。「その揺らぎこそ、答えへの入口だよ。次に会うときまでに、君は自分の過去と向き合わなければならない。逃げ続けたまま、私に勝てるとは思わないことだ。……そうそう。あの子を返してほしいなら、なおのこと」


 その言葉を最後に、その人の姿は月光の中でゆらりと歪み、掻き消えた。消されたのではない。自分から消えたのだ。私と同じように、痕跡ひとつ残さずに。


 ◇


 誰もいなくなった講堂で、私はしばらく動けなかった。膝が、まだ笑っている。


 あの男の言うことは間違っている。それははっきりしている。でも――その理屈のいちばん奥に、私が反論しきれないひとつの真実があった。私は消してきた。消して、なかったことにして、そのたびに何ひとつ変えてこなかった。そして今、私の記憶そのものが、揺らいでいる。


 私は狐面をゆっくりと外した。冷たい夜気が汗ばんだ頬を撫でる。ずっと、湧いた悪意を湧いた端から消してきた。それが償いだと信じて。でもそれは、ただの先送りだったのかもしれない。掬っても掬っても水はこぼれ続ける。バケツの穴を塞がない限り、この夜は永遠に終わらない。


 方針を、変える。もう後始末はしない。あの男の撒いた餌を、言われるまま追うのでもない。私は私の足で、この学園のいちばん深い場所へ――綻びを生み出しているその根そのものへ、まっすぐ踏み込む。そのためには、目を逸らし続けてきた私自身の過去とも、向き合わなければならない。たとえ、その記憶が、もう私のものかどうかさえ、分からないとしても。


 怖い。それでも逃げ続けたまま、あの男には勝てない。何より、逃げ続けたままの私には、消してしまったあの小さな温もりに、いつまでも顔向けができない。私は狐面を握りしめて、夜明け前の講堂を後にした。今夜から、私の戦い方は変わる。

お読みいただきありがとうございました。

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次話は明日21時ごろ更新予定です。

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