第41話 招待
【葵side】
それから数日、学園はうわべだけはいつもの顔をしていた。
朝の点呼。退屈な講義。格付けの序列。何も変わらない、平穏な日々。でもその平穏の下で、私だけが別の時間を生きていた。あの古い施設で聞いた言葉が、ずっと頭の奥でくすぶっている。――近いうちに、あの方が君に会いたいそうだよ。
昼休み、私はいつものテーブルで、ぬるくなったポタージュを口に運んでいた。向かいでは双葉さんが颯太くんと小さく言い合い、詩織が涼しい顔で紅茶を淹れている。少し離れた席では、陸くんに体術のコツを聞く蓮くんの、まっすぐな声がした。なんでもない、ばかみたいに平和な光景。この輪の中にいると、私は時々、自分がただの女子生徒に戻れた気がしてしまう。
――だめだ。
私は、そっとスプーンを置いた。この温もりに慣れてはいけない。私が向かおうとしている場所は、この席から、どんどん遠くなる。近づけば近づくほど、私はこの輪から離れていく。だからこそ、目に焼きつけておく。いつか、いちばん昏い場所に立ったとき、思い出せるように。柄にもない感傷だと、自分でも思う。それでも、この数日の食堂の光景だけは、胸の奥にそっとしまっておきたかった。
その「近いうち」は、思ったよりずっと早く訪れた。
◇
放課後、下駄箱を開けると、一通の封筒が忍ばせてあった。
白い、上質な紙。差出人の名はない。開くと、短い一文だけが几帳面な字で記されていた。
『あなたが探しているものは、すべて私が持っています。会いに来なさい。あなたの、いちばん古い記憶の答えも』
いちばん古い記憶の、答え。
その一文を読んだ瞬間、私の指先から体温がすっと引いていった。
私は、とっさに周囲を見回した。下駄箱の並ぶ昇降口には、もう誰もいない。夕暮れの赤い光が、床に長い影を落としているだけ。心臓が、痛いくらいに鳴っている。この封筒を、いつ、誰が、ここに入れたのか。まるで見当がつかない。学園のいちばん無防備な日常の隙間に、向こうは、こうもたやすく手を伸ばしてくる。その事実が、ぞっとするほど冷たかった。私は封筒を、誰にも見られないように、そっと制服の内へ滑り込ませた。
……この男は知っている。私が幼い頃に、この手で消してしまったものを。あの、取り返しのつかない静けさを。誰にも話したことのない、私のいちばん昏い場所を。なぜ。どうして。あの場にいた者は、もう誰もいないはずなのに。私に力を教え、私の罪を肩代わりして消えた、あの人を除いては。
(……落ち着け)
私は封筒を握る指に力を込めた。挑発だ。私を揺さぶって判断を鈍らせるつもり。分かっている。乗ってはいけない。頭では分かっている。それなのに、胸の奥が勝手にざわめいて止まらなかった。
もし。もし本当にこの男が、あの日の答えを持っているなら。私がなぜあんなことをしたのか。なぜ、守りたかったものまで消してしまったのか。その意味を知ることが、できるなら。
――知って、どうするの。
もう一人の私が冷たく問う。知ったところで、消したものは戻らない。あの小さな温もりは、二度と帰ってこない。今さら答えを聞いて、何になる。それは償いじゃない。ただの自己満足だ。私が楽になりたいだけの。
そう思うのに、指先は封筒を、離せなかった。
私は、ずっと自分に禁じてきた。あの日のことを、思い出すのを。考えるのを。なぜあんなことになったのか、その理由を探すことすら、私には許されないと思っていた。理由を知って、もし少しでも「仕方なかった」と思えてしまったら。私は、あの子への罪を、軽くしてしまう。それが怖くて、私はずっと、答えのない罰の中に、自分を閉じ込めてきた。
でも、この封筒は、その扉を外側から叩いている。知りたくないと言い張ってきた私の、いちばん奥の本音を、見透かすように。
そうだ。分かっている。それでも――私の足は、もう動き出していた。あの管理人の言葉が、耳の奥で疼く。それは責任じゃない、ただの逃避だ、と。逃げ続けてきたのは、たぶん、事件からじゃない。私は、自分の過去そのものから、ずっと目を逸らしてきたのだ。ならば、一度くらい、正面から見てやろうじゃないか。たとえその先で、私が私でいられなくなるとしても。
◇
その夜、私は屋上に立っていた。
封筒を月明かりにかざす。几帳面な、右上がりの字。この字を、私はどこかで見た気がした。埃と黴のにおいのする、あの古い記録のいちばん深いところで。……まさか、と思う。そのまさかを確かめるためにも、行かなければならない。もしこの字の主が、私の思っている人だとしたら。生きているのか死んでいるのかさえ分からない、あの人だとしたら。
背後で、風に混じってかすかな衣擦れの音がした。振り返らなくても分かる。詩織だ。あの子はあれきり、私に何も言わない。ただ影のように、そっとついてくる。止めもせず、離れもせず。その距離が、今の私には少しだけありがたかった。
「……行くよ、詩織」私は背を向けたまま言った。「これは私のけじめだから。あなたは離れて見てて。いざという時――私が私でなくなりそうになったら、その時だけ、思い出させて。私が、誰なのかを」
返事はなかった。ただ衣擦れの音が、こくりと頷くように一度だけ揺れた。それで十分だった。この子は、そういう子だ。多くを語らず、ただ、そこにいてくれる。
私は封筒を、内ポケットの狐面の隣にそっとしまった。過去への招待状と、今の私を隠す面。相反する二つを胸に抱いて、私は夜の底へ向かう。
――待っていて。あの方とやら。今度は私が、あなたの首根っこを掴みに行く。ついでに、あなたが握っているという私の昔の答えも、全部まとめて暴いてあげる。
屋上の縁に立って、私は眼下の学園を見下ろした。寮の窓に、ぽつぽつと灯りがともっている。あの灯りの一つ一つに、誰かの、なんでもない夜がある。宿題に追われる子。友達と笑う子。明日を、当たり前に信じている子。私が日陰で守ってきたのは、この、なんでもない灯りたちだ。そして今から私が向かうのは、この灯りのどれもが届かない、いちばん昏い底だった。
怖くないと言えば、嘘になる。踏み込めば、もう戻れないかもしれない。この屋上にも、あの食堂の席にも。それでも、逃げ続けた先に守れるものなんて、何もない。それだけは、もう知っている。
狐面の下で見る夜は、いつも同じ色をしている。昏くて、静かで、どこまでも深い。でも今夜だけは、その闇のいちばん奥に、小さな灯りがひとつ揺れている気がした。それが答えへ導く灯りなのか、それとも私を呑み込む罠の口なのか。まだ分からない。分からないまま、私は一歩を踏み出した。
足を止めるわけには、いかなかった。逃げるのは、もう終わりにすると決めたのだから。――行こう。あの日から続く、この長い夜の、いちばん奥へ。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




