第40話 誰より先に、気づく
【詩織side】
わたくしは、闇の中で息を殺していた。
葵様の呼び声が通路に静かに響いた。「そこにいるの、詩織」と。……気づかれていた。当然だ。あの方に隠しごとなど、できるはずもない。それでもわたくしは返事をしなかった。返事をすれば「帰りなさい」と命じられてしまう。それだけは聞きたくなかった。
葵様の足音が遠ざかっていく。わたくしは壁に背を預けて、そっと目を閉じた。いつからだろう。あの方が変わったのは。
◇
きっかけなど、なかった。ある朝いつものように食堂で顔を合わせて、わたくしは気づいてしまったのだ。葵様の目の奥の色が、違う、と。
他の誰も気づかない。双子も、あの編入生でさえ、たぶんまだはっきりとは掴んでいない。当たり前だ。葵様は気弱なふりが恐ろしく上手い。頭を下げ、へらへらと笑い、いちばん弱い者を演じてみせる。その仮面には、ひびひとつ入っていない。
でも、わたくしには分かる。誰よりも近くであの方の背中を見てきたから。あの方がどんなふうに息を吐くのか。湯気の立つポタージュを、どんなふうに少しだけ冷ましてから口に運ぶのか。そういうなんでもない仕草の、ほんのわずかな変化で、わたくしには分かってしまう。
人は、本当に大切なものを隠すとき、いちばん自然に振る舞う。あの方も、そうだ。だからこそ、その「自然」が、ほんの少しでも作り物めいた瞬間を、わたくしは見逃さない。葵様が誰かに気を許して笑うとき、その笑みは温かい。けれど、ひとりでいると思っているときのあの方の横顔は、いつも、遠い。ここにいながら、ここにいない。その距離が、この頃、少しずつ、広がっている。まるで、心のどこかが、もうここではない場所へ、旅立ちの支度を始めているように。
たとえば、この頃のあの方は、食堂で笑うとき、以前より一拍だけ遅れる。周りに合わせて口角を上げてから、ほんの少し置いて、目が笑う。心が、ここではない場所にあるからだ。たとえば、廊下で誰かに肩をぶつけられて頭を下げるとき、その指先が、以前のように怯えていない。演技の下で、あの方の芯が、静かに据わってきている。誰も気づかない。気づけるのは、あの方の仮面の、そのまた下まで見てきた、わたくしだけ。
葵様は、これまで湧いてくる悪意を、湧いた端から消してきた。受け身の、終わりのない作業。それがあの方の償いだった。だが今のあの方は違う。狐面を握る手の、力の入り方が違う。夜、部屋を抜け出す足取りに迷いがない。あの方は待つのをやめた。自分から、いちばん昏い場所へ降りていこうとしている。
それが、どれほど危ういことか。
わたくしは知っている。あの方は優しすぎる。その優しさで、いつも自分自身をいちばん後回しにする。誰かを守るためなら平気で自分を差し出してしまう。だから目を離せない。少しでも離せば、あの方はたった一人で、どこか遠くへ消えてしまいそうで。
◇
わたくしには、忘れられない日がある。
行き場を失い、この力を持て余し、化け物と呼ばれて、消えてしまいたかった日。世界のすべてがわたくしを拒んでいた。誰もわたくしの目を見なかった。誰もわたくしの名を呼ばなかった。凍えるような孤独の底で、わたくしはただ、消えることだけを願っていた。
そんなわたくしに、あの方だけが手を差し伸べた。「あなたの力は、あなたのせいじゃない」と。ただそれだけ。たったそれだけの言葉で、凍りついた世界に、ひとすじの熱が灯った。
それだけではない。わたくしが、あの方のために手を汚そうとするたび、あの方は、静かに首を振るのだ。「詩織に、そんなことはさせたくない」と。ご自分は、あんなにも泥をかぶり続けているのに。わたくしを、その泥から遠ざけようとする。わたくしがどれだけ望んでも、あの方は、わたくしの手を汚させてくれない。その優しさが、時々、苦しいほどだった。守られているのは、いつだって、わたくしのほうなのだ。
だから、この命はあの方のもの。それ以上の理由は要らない。あの方がいちばん昏い場所へ向かうというなら、わたくしはその影となって、どこまでもついていく。たとえ気づかれなくても。たとえ「帰りなさい」と拒まれても。それが、拾われた者にできる、たったひとつの恩返しだから。
◇
葵様の足音が完全に聞こえなくなってから、わたくしは壁から背を離した。
これまでのわたくしは、あの方を「守る」ことばかり考えていた。悪意の手が届く前に間引く。罠を、なかったことにする。あの方が汚れずに済むように、先回りして道を掃き清める。それが役目だと、信じて疑わなかった。
でも今は、少し違う気がしている。あの方はもう、守られるだけの人ではない。自分の足で、自分の過去へ踏み込もうとしている。ならば、わたくしがすべきは、先回りして道を消すことではない。あの方がその道を最後まで歩ききれるように、倒れそうになったその時にだけ、そっと背を支える。それでいい。
立ち位置を、変えよう。守る者から、見届ける者へ。
わたくしは、闇に紛れて、遠ざかる足音を追った。近づきすぎず、離れすぎず。あの方が振り返れば、すぐに柱の影へ身を沈められる距離を保って。これは、いちばん得意な間合いだった。誰の目にも触れず、ただ、守りたい人の背中だけを見ている。かつて誰にも見てもらえなかったわたくしが、今は、誰かをこうして見つめている。その皮肉が、少しだけ、おかしかった。
一度、角を曲がった先で、あの方の足音がふっと消えた。心臓が、冷たく縮む。見失った。その一瞬の恐怖の大きさに、わたくし自身が驚いた。あの方のいない世界へ、わたくしはもう、戻りたくないのだと、体が正直に告げていた。息を殺して耳を澄ますと、もう一度、かすかな足音が聞こえた。安堵で、膝が抜けそうになる。わたくしは、そっと壁に手をついて、自分を支えた。
この先にあの方が向かうのは、よく似た力を持つという、あの白い仮面のいる場所だ。そして、あの方が決して語らない、いちばん古い過去。近づけば近づくほど、あの方の心は削れていくだろう。それでも止められないなら、せめて。わたくしは、あの方が自分を見失わないための、最後の一片でありたかった。あの方が「私が誰なのかを思い出させて」と、いつか言ってくださるその時のために。
闇の奥へ消えた葵様の背を思い、わたくしは静かにそう心に決めた。あの方がこの夜の果てで何を見て、何を選ぶのか。その、すべてを。わたくしはこの目で見届ける。それが拾われた者の、新しい役目だと、そう思えた。
ふと、遠ざかる足音の残響に、わたくしは唇を噛む。あの方の向かう先に、何が待っているのか。よく似た力を持つという、あの白い仮面。そして、あの方が決して語らない、いちばん古い過去。近づけば近づくほど、あの方の心は削れていくだろう。それでも止められないなら、せめて。わたくしは、あの方が自分を見失わないための、最後の一片でありたかった。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




