第39話 設計する者
【葵side】
足跡の先で私を待っていたのは、一人の男だった。
古びた実験着を羽織った、痩せた背中。私が近づいても振り返らない。壊れた計器の前に立って、埃をかぶった記録の束を指でめくっている。まるで自分の書斎にいるみたいに、ひどくくつろいで。
「来たね」男はこちらを見ずに言った。「思ったより早かった。掃除屋にしては優秀だ」
私は答えなかった。ただその男の全身を目で測る。敵意は感じない。それがかえって不気味だった。悪意をむき出しにする相手なら対処のしようがある。でもこの男からは何も伝わってこない。凪いだ水面のような、ただの空白。
「あなたは、誰」
「さあ」男はようやく振り返った。顔の上半分を白い布で覆っている。私が追ってきたあの白い仮面とは違う。だが、同じにおいがした。「名乗るほどの者じゃないよ。私はただ掃除を頼まれているだけでね。あの方の、代わりに」
あの方。その一言に、私の指先がわずかに緊張した。
「この施設を、あなたが動かしていたの」
「まさか」男は笑ったようだった。「私は管理人だよ。片づけて、記録して、次に備える。ここはもう役目を終えた。だからこうして帳簿を締めている。……君のような子には分からないだろうがね。ものごとには始末が要る。生き物と同じだ。生まれた以上は、いつかきちんと畳まなきゃいけない」
畳む。子どもを実験台にしたこの場所を。まるで家計簿でも閉じるみたいな口ぶりで。私は胸の奥が冷たく凪いでいくのを感じた。怒りとは少し違う。もっと底の知れない寒さだった。
「……ここで、何人、壊したの」
「壊した?」男は心底不思議そうに首をかしげた。「人聞きが悪いな。育てた、と言ってほしいね。この学園の綻びを繕うための、駒を。悪いことをしていたつもりはないんだよ。むしろ逆だ。誰かがやらなきゃいけない。世界という仕組みを、回し続けるためにはね」
誰かが、やらなきゃいけない。
その言葉に、私は一瞬、息を止めた。それは、私がずっと自分に言い聞かせてきた言葉とあまりにも似ていた。悪はなくならない。だから誰かが引き受けるしかない。日陰で、泥をかぶって。なのにこの男の口から出ると、同じ言葉がまるで別の生き物のように聞こえた。
「あなたたちは」私は声を絞り出した。「引き受けてるんじゃない。……作ってる。綻びのほうを、自分たちの手で」
「そうだよ」男はあっさりと頷いた。「綻びがなければ、繕う者も要らない。管理する者が、いちばん強い。あの方はそう考えておられる。力ある者は、隠れて詫びるのではなく、表に立って世界を設計すべきだと。君のように日陰で震えている必要は、どこにもないんだよ」
力ある者は、世界を設計すべき。
私の掌に、じわりと汗がにじんだ。この男の言うことは、間違っている。子どもを壊して駒にするなんて、許されるはずがない。それははっきりしている。それなのに、その理屈のいちばん底に、ぞっとするほど筋の通った芯があった。私が「引き受ける」と呼んでいるものと、この男が「管理する」と呼ぶもの。二つは、根のところで、同じ土から生えている気がした。
「……あなたたちのやり方は、間違ってる」私は、自分に言い聞かせるように繰り返した。
「かもしれない。でも君のやり方も、正しくはないだろう」男は静かに言った。「隠れて、一つずつ消して、誰にも知られずに詫びる。それで世界の何が変わった? 君が消せば消すほど、綻びは、なかったことになるだけだ。誰も学ばない。誰も変わらない。……それは責任じゃない。ただの、逃避だよ」
逃避。その言葉が、胸の柔らかいところに深く刺さった。この男は、私のいちばん痛いところを、まるで知っているかのように突いてくる。
「……あなたの言う『あの方』は、何者なの」私は、動揺を悟られないように、声を平坦に保った。「この施設を作らせて、子どもを駒に変えて。それを『設計』と呼ばせている。そんな人間が、なぜ、私のことを知っているの」
「さあ。私の口からは、言えないな」男は、記録の束をぱらりとめくった。埃が、月のない闇に舞う。「ただ、ひとつだけ教えてあげよう。あの方は、ずいぶん昔から、この場所に関わっておられる。君が思うよりも、ずっと昔からね。この記録の、いちばん古い頁にも、あの方の筆が残っている」
いちばん古い頁。その言葉に、私の視線が、思わず男の手元の記録へ吸い寄せられた。几帳面な、右上がりの字。遠い昔、隣で何度も見た筆跡と、どこか似ている気がして、心臓が嫌な音を立てた。
――まさか。
その考えを、私は慌てて振り払った。今は、確かめる時じゃない。動揺を見せれば、そこから崩される。この男は、そうやって私を揺さぶるために、わざと餌を撒いている。乗ってはいけない。
「……そう」私は、かろうじて、そう返した。声が震えていないことだけを、祈りながら。
男は、私の内心を見透かしたように、くつくつと笑った。「怖いかい。知ることが。……無理もない。人は、いちばん見たくないものほど、いちばん奥に隠すからね」
私は、とっさに手を振り上げかけた。この男を、ここで消してしまえば。そう思った自分に気づいて、寸前で手を止める。だめだ。こいつを消しても意味がない。ただの管理人だ。畳んで記録するだけの。消すべきなのは、その先。この男に「あの方」と呼ばせている、本体のほうだ。それに――もし今この男を消せば、あの筆跡の主に繋がる糸まで、私は自分の手で断ってしまう。
「賢明だね」男は、私の止まった手を見て、満足そうに頷いた。「感情で動く子だと思っていたが、存外、冷静だ。……いや、冷静でいようと必死なだけかな。それでいい。ここで私を消したところで、君の探している答えは、ひとつも手に入らないのだからね」
図星を突かれて、私は奥歯を噛んだ。この男は、こちらの手の内を、まるで最初から知っているみたいに読んでくる。私と同じものを、何度も見てきた者のように。
男は私の逡巡を見透かしたように、静かに背を向けた。そして闇に溶ける寸前、こう言い残した。
「近いうちに、あの方が君に会いたいそうだよ。……君とあの方は、よく似ているそうだからね」
◇
男が消えたあと、私はしばらく動けなかった。よく似ている。その言葉が、耳の奥でいつまでも反響していた。
その時ふと、通路の暗がりに、かすかな衣擦れの音を聞いた気がした。私は素早く振り返る。誰もいない。ただ闇がわずかに揺れただけ。……また、この気配だ。ここへ来る時から、ずっとうなじに残っている。守るような、見張るような。
「……そこにいるの、詩織」
闇に向かって、私は静かに問うた。返事はなかった。ただ、揺れていた気配がぴたりと止まった。それが答えだった。
私は小さく息を吐いた。あの子は、いつから気づいていたんだろう。私が一人でこの夜に降りようとしていることに。……本当に目ざとい子。誰よりも先に、私の変化に気づいてしまう、たった一人。巻き込みたくなかった。でも、あの子はたぶん止まらない。私が止まらないのと、同じように。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




