第38話 追いつきたい
【蓮side】
拳が、また空を切った。
「遅い」
短く言って、迅雷陸は俺の伸びきった腕を指一本で払いのけた。それだけで俺の体勢は崩れ、たたらを踏んで地面に膝をつく。夜の訓練場に、俺の荒い息だけが響いた。
「力むな、天音。お前は力を入れることばかり考えてる。抜くことを覚えろ。ずっと拳を握りっぱなしだったら、いざって時に握れねえだろ」
「……はい」
俺は地面を睨んだまま、拳を開いてまた握った。この数週間、放課後は毎日こうして陸に体術を教わっている。速さを失ってなお、体の使い方だけならこいつはこの学園の誰より練れていた。かつて力に驕って砕けて、そこから這い上がってきた男の言葉には、妙な重みがある。
俺には時々、体の奥から爆発するみたいに噴き出す力がある。誰かを守ろうとした一瞬にだけ灯る熱だ。だがそれは数秒で消える。呼ぼうとして出たためしがない。肝心な時にこそ応えてくれない。だから鍛えている。せめてその一瞬を少しでも長く、自分の意志で灯せるように。
もう一度構える。陸の踏み込みは、速さを失った今でも滑らかだった。俺の突きは軽くいなされ、気づけば足を払われて、また背中から地面に落ちていた。息が上がる。それでも起き上がる。倒れても立つ。それだけは、意地でも守ると決めていた。
「なあ、陸」息を整えながら、俺は訊いた。「強さって、なんだと思う」
陸は少し驚いた顔をして、それからふっと笑った。タオルを俺に放って、夜空を見上げる。
「勝つことじゃねえよ。少なくとも今の俺は、そう思う」低い声だった。「守りたいものの前で、何度でも立ち上がること。倒れても、みっともなく、また立つこと。……それを俺は、ある化け物じみた背中に教わったんだ」
化け物じみた背中。その言い方に、俺は口をつぐんだ。陸が誰のことを言っているのか、たぶん俺と同じだ。だが二人とも、その名は口にしなかった。この学園には、口にしてはいけない本当が、いくつもある。
「なあ、天音」陸が、汗を拭いながら言った。「お前、なんでそんなに必死なんだ。編入してきた頃のお前は、正義感で突っ走るだけの、危なっかしいガキだった。今のお前は、違う。地べたを這ってでも強くなろうとしてる。……何か、あっただろ」
図星だった。俺は少し迷って、それから正直に答えた。「守りたいやつができたんだ。俺よりずっと強くて、ずっと一人で、ずっと無理をしてるやつが。……そいつの隣に、胸を張って立ちたい。今のままじゃ、足手まといにしかならないから」
陸は、ふうん、と鼻を鳴らして、それ以上は訊かなかった。ただ、その横顔が、どこか眩しそうに見えた。こいつもきっと、あの背中に、何かを返したいと思っている。誰にも気づかれないまま、この学園のどこかで救われた者は、たぶん、俺たちだけじゃない。
もう一度、俺は拳を握った。奥歯を噛みしめて、誰かを守る瞬間を思い浮かべる。あの、体の芯が燃える感覚を。ほんの一瞬、指先に熱が集まった気がした。だが、それはすぐに霧散する。まだ届かない。呼んでも応えない。それでも、以前より一秒だけ長く保てた気がして、俺はひそかに拳を握り直した。
――前の人生でも、俺はきっと、こうやって誰かを守ろうとしていた。名前も顔も思い出せない。ただ、守れなかったという後悔の感触だけが、体の芯に焼きついている。だから今度こそ、と思う。今度こそ、こぼさない。目の前の手を、取り損ねない。その一心が、俺の背骨になっていた。
◇
訓練を終えて寮への道を歩きながら、俺はいつもの癖で校舎のほうを振り返った。
最近、あいつを――灰原を見かけない。昼休みの屋上にも、図書室のいちばん奥にもいない日が増えた。教室では相変わらず気弱なふりをして頭を下げている。だがその横顔が、以前と違う。どこか遠くを見ている。ここではない、もっと昏い場所を、その目だけがじっと見据えている。
あいつは動き出している。俺にはそれが分かった。屋上で背を向けて「いってきます」と言い残したあの一言が、まだ耳の奥にこびりついて離れない。灰原は一人で、どこか遠くて危ない場所へ降りていこうとしている。
一度だけ、放課後の廊下で、あいつとすれ違ったことがあった。灰原は俺に気づくと、いつもの気弱な笑みを作って、小さく頭を下げた。「あ、天音くん。……お疲れさま、です」。ほんの数秒のやりとり。だが俺には分かった。その笑顔の奥で、あいつはもう、別の場所を見ている。俺の手の届かない、深いところを。引き止めたかった。行くな、と。でも、言えなかった。あいつのけじめに、俺が口を挟む資格はない。ただ見送ることしかできない自分が、たまらなく歯がゆかった。
(……追いつけよ、俺)
悔しさがじわりと胸を焼いた。あいつが背負っているものの重さを、俺は思い知らされた。指先ひとつで世界を書き換えてしまう力。それを抱えて、なお誰にも寄りかからず、一人で泥をかぶり続ける。俺なんかが「隣にいる」と言うのは、たぶんひどく傲慢なことなんだろう。役にも立たないくせに、と。
それでも俺は言った。半分持つ、と。あの時のあいつの、揺れた表情を忘れていない。
その時、道の脇から小さな声がかかった。「天音さん」。振り向くと、以前かばったことのある下級生だ。もう昔のことは覚えていないという。ただ時々、理由もなく涙が出る、とはにかんで話してくれた子。夜の訓練の帰りに、こうしてよくすれ違う。
「まだ、練習してたんですか。すごいなあ」その子は、まぶしそうに俺を見た。俺は笑って、その頭を軽く叩く。「まあな。守りたいやつがいると、人間、粘り強くなるもんらしい」。下級生はきょとんとして、それから、へへ、と笑った。その笑顔を見て、俺は改めて思う。この子が安心して笑える場所を、俺は本気で作りたい。そのために、強くならなきゃいけない。
下級生と別れて、俺はまた夜空を見上げた。日向を歩く俺と、日陰に降りていくあいつ。その距離はたぶん、まだ途方もなく遠い。
それでも、と俺は思う。あいつが一人で泥をかぶってきたこの学園で、あいつのおかげで救われた子は、たぶん数えきれないほどいる。この下級生も、そうだ。自分が助けられたことにすら気づかないまま、また笑えるようになった子たち。その笑顔の一つ一つが、あいつが日陰で払ってきた代償の上に成り立っている。誰も、それを知らない。誰も、あいつに礼を言わない。だったら、せめて俺だけは覚えていたい。あいつが何を守ってきたのかを。そして、いつかその重荷を、半分でいいから、この肩に移させてほしい。
「……待ってろよ」
誰にともなく呟いた声は、夜に溶けて消えた。それでも俺は自室に戻ってから消灯まで、拳を握り、開き、また握った。応えのない熱に、何度も、何度も。いつかこの手が、あいつの隣に立つにふさわしいものになる日まで。その執念だけは、誰にも負けない自信があった。才能でも格付けでも敵わなくても、諦めの悪さだけは、俺のゆずれない誇りだ。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




