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無能を演じる必要悪 〜正義の勇者が壊した世界を、私はまた黙って直す〜  作者: なち
第3部 交わらぬ責任

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第37話 夜を、たどる

【葵side】


 真夜中の学園は、水の底に似ている。


 物音ひとつしない廊下を、私は足音を殺して歩いた。月明かりが窓の格子を床に落として、そこだけ檻の影が長く伸びている。いつもの夜なら、この時間の私は誰かの起こした綻びを消しに向かっていた。悲鳴の予感がするほうへ。血のにおいのするほうへ。湧いた澱を湧いた端から掬うために、私はいつだって受け身で走ってきた。


 でも今夜は違う。


 私が向かっているのは事件の起きた場所じゃない。事件が生まれてくる、その根のほうだ。掬っても掬っても水がこぼれ続けるなら、いいかげん、穴のほうを塞ぎに行くしかない。ずっと目を逸らしてきたその一歩を、私はようやく踏み出そうとしていた。


 狐の面を制服の内に忍ばせている。冷たい漆黒の感触が肋骨のあたりで私の覚悟をなぞった。この面をつける意味が、いつのまにか変わっている。誰かの後始末をするためじゃない。この長い夜そのものにけりをつけるためだ。


 塀の外れ、旧棟のさらに奥。地図にも残っていない古い区画がある。救い出した子たちの、薬に沈む前のかすかな記憶。その断片を一つずつ手繰り寄せて、私はここへ行き着いた。連れて行かれた子どもたちが最後に通った道だ。


 錆びた鉄扉に手をかける。鍵は、かかっていなかった。


 ――おかしい。


 指先が止まった。ここは誰にも見つかってはいけない場所のはずだ。それなのに扉は、まるで招くようにわずかに開いている。掌に伝わる金属の冷たさが、ぞわりと背筋を這い上がってきた。


 ◇


 扉の向こうは深い喉のような下り階段だった。一段降りるごとに空気が変わっていく。饐えた薬品めいたにおい。乾いた埃と、その奥に沈むかすかな鉄のにおい。喉の奥が勝手に締まった。


 この匂いを、私の体は覚えている。頭ではなく、皮膚が、爪の先が、勝手に覚えてしまっている。ずっと昔に一度、よく似た場所へ足を踏み入れたことがあった。まだ自分を正義だと信じきっていた、幼い頃に。焼けるような使命感だけを胸に抱えていた、あの時分に。


 込み上げかけたものに、私は静かに蓋をした。今は感傷に浸る夜じゃない。


 降りきった先はがらんとした広間だった。壁際に空のガラスの筒が並んでいる。中身はとうに運び出されたあとらしい。人ひとりを収められるほどの大きさ。管を繋いだ痕。ここで何が行われていたのか、想像はつく。いやというほど。


 筒の一つに、私はそっと手を触れた。冷たいガラスの向こうに、まだ、誰かの温もりの残響がある気がした。ここに沈められた子は、目覚めたとき自分の名前を言えただろうか。それとも、名前ごと、誰かに書き換えられてしまっただろうか。


 ふいに、視界の端が白く灼けた。


 幼い手。誰かの小さな手が、私の袖をきゅっと握っている。温かくて頼りなくて、絶対に離してはいけないと思っていた、あの重み。光が満ちて、そして音が消える。世界からその手の温もりだけが、そっと引き算されていく。


 私は息を呑んで目を開けた。幻だ。埃の匂いが勝手に引きずり出した、古い記憶の切れ端。膝がかすかに笑っていた。何年経っても、この匂いの前に立つと、私はあの頃の子どもに引き戻されてしまう。焼けるような使命感で、なんでもできると信じていた、あの愚かな子どもに。


 浅く呼吸を整えて、私は先へ進んだ。奥の棚に、小さな靴が片方だけ転がっている。持ち主はもう、ここにはいない。この靴の子が無事にどこかで目を覚ましていることを、私は祈った。祈ることしかできない自分の無力を噛みしめながら、その靴を、そっと棚の上に戻す。せめて、なくさないように。


 その時、床に妙なものを見つけて、私は身を屈めた。細い針金と、薬品の小瓶。誰かが仕掛けた、粗末な罠の残骸だ。侵入者の足を止めるための、ありふれた細工。私はほとんど無意識に手を伸ばしかけて、寸前でその手を止めた。


 (……もう、こういうのを片づける夜じゃない)


 消して回るのは、今日で終わりにすると決めたのだ。私は罠をそのままにして、立ち上がった。


 だが、私の指先を本当に止めたのは、罠でも筒でもなかった。


 床に積もった埃の上に、真新しい足跡が一筋、奥へと続いていた。迷いのないまっすぐな歩幅で。長く使われていない場所に残る、新しい痕。しかもその足跡は、隠す気配がまるでない。消す気もない。まるで「ここまでおいで」と置かれた、道しるべのように。


 私は、これまで何百と悪意の痕跡を消してきた。だから分かる。痕跡というのは、消されるために生まれるものだ。それなのにこの足跡は、消されることをはじめから拒んでいる。堂々と、そこにある。


 背筋の産毛がそっと逆立った。泳がされている。その言葉が頭の芯に浮かんだ。私がこの根に辿り着くことを、誰かが待っていた。私が来ると知っていて、扉を開け、足跡を残しておいた。


 (……上等じゃない)


 私は内ポケットの狐面に、そっと指を触れた。招かれているなら、なおのこと引き返す理由はない。向こうが誘うというなら、その奥にいる誰かの首根っこを、まっすぐ掴みに行くだけだ。ずっと尻尾を掴ませなかった、あの黒い手を。


 それにしても、と私は思う。あの手はいつも、痕跡を消す側だった。都合の悪いものを、静かに闇へ葬る側。私が幹部を追い詰めたあの晩も、口を封じて証拠ごと消したのは、向こうのほうだった。なのに今夜は、逆だ。招いている。道を残している。まるで、私にここへ来てほしくて仕方がないみたいに。消す者が、招く者に変わった。その変化の意味を考えると、みぞおちのあたりが、じわりと重くなった。向こうは、私という存在そのものに、何か用があるのだ。


 足跡を追って奥の通路へ踏み込む。その時、背後でかすかな空気の揺れを感じた気がした。振り返る。誰もいない。ただ月も届かない闇が、口を開けているだけだった。


 気のせい。そう思おうとして、思いきれなかった。この夜、私は一人のはずだ。それなのに、うなじのあたりに誰かの視線に似た熱が残っている。守るような、見張るような、どちらともつかない気配。


 誰かに見られながら歩くのは、久しぶりだった。私はいつも、誰にも気づかれない場所で仕事をしてきた。感謝も賞賛もない、影の夜を選んできた。それが、いちばん安全だから。誰も傷つけずに済むから。なのに今夜のこの視線は、なぜだろう、振り払う気にならなかった。追い払えば、また一人きりの闇に戻るだけだと、体のどこかが知っている。


 私は小さく頭を振って、その甘えを追い出した。今は、それどころじゃない。この足跡の先に、誰かが待っている。私が来ることを、待ち構えている。


 私は面を握りしめた。掃除屋の夜は終わった。今日から私は暴く側だ。この足跡の主が私と同じものを見てきた者だとしても。その先に、私自身のいちばん見たくない場所が待っていても。


 闇の奥へ、私は一歩を踏み出した。足取りに迷いはなかった。ただ胸の底だけが、遠い匂いを嗅いだ子どものように、かすかに震えていた。

お読みいただきありがとうございました。

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次話は明日21時ごろ更新予定です。

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