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無能を演じる必要悪 〜正義の勇者が壊した世界を、私はまた黙って直す〜  作者: なち
第2部 交わらぬ正義

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第35話 影の名

【葵side】


 平穏な日々の裏で、私は、一人、動き始めていた。


 あの、白い仮面の男。私と同じ力を持ち、私の過去を知り、そして、私の手から逃げおおせた、唯一の存在。あの男を追うことが、今の私の、たった一つの目的になっていた。逃げるのは、もう終わり。今度は、私が、暴く番。


 これまで、私は受け身だった。この学園に湧く悪意を、湧いた端から、消していく。まるで、穴の空いたバケツから、こぼれる水を、ひたすら掬い続けるように。掬っても、掬っても、水はこぼれ続ける。……バケツの穴を、塞がない限り。その穴が、あの白い仮面であり、この学園のいちばん深いところに巣食う暗部そのものなのだと、私は、ようやく、正面から認めた。目を逸らしてきた。あまりに大きすぎて。あまりに、昏すぎて。でも、もう、逃げない。


 夜ごと、私は、地下から救い出した生徒たちの、かすかな記憶を、そっと辿った。薬に沈められる前の、断片。誰に、どこで、連れて行かれたのか。その糸を手繰るうち、私は、一つの、恐ろしい事実に、行き当たった。


 あの暗部育成の仕組みは、末端の“解放の輪”が作ったものではない。もっと上。学園の、いちばん深い場所。運営の中枢に近いどこかで、ずっと昔から、承認され、続けられてきたものだった。子どもを実験台にし、暗部の駒を育てる。それを、あの白い仮面が、統べている。


 そして――その仕組みの、いちばん古い記録に、私は、見覚えのある筆跡を、見つけてしまった。


 (……嘘、でしょう)


 黄ばんだ紙の上を、指先が、なぞる。かすれたインクの、右上がりの癖。とめ、はね、払い。何百回と、隣で見てきた字だ。忘れられるわけがない。埃と黴のにおいのこもる、その古い書庫で、私はしばらく、息をするのも忘れていた。ページを、めくれなかった。めくった先に、何が書いてあるのか。それを見てしまったら、私の中の“あの人”が、崩れてしまう気がして。


 それは、先代の字だった。私に、この力の使い方を教え、私の罪を肩代わりして姿を消した、あの人の。几帳面で、それでいて、どこか優しい、あの字。「力は、振るうためではなく、堪えるためにある」――そう口癖のように言っていた人の名が、なぜ、子どもを実験台にする仕組みの、いちばん古い場所にあるのか。


 信じたくなかった。でも、この筆跡は、間違いなく、あの人のものだった。共犯だったのか。それとも、内側から壊そうとして、いちばん昏い場所に身を沈めたのか。──分からない。考えれば考えるほど、足元が崩れていくようで、私は、それ以上、答えを探すのをやめた。今、確かなことは、ひとつだけ。あの白い仮面を追えば、私はいつか、先代に辿り着く。生きているのか、死んでいるのかさえ分からない、あの人に。あの日から、ずっと目を逸らしてきた、私自身の過去の、いちばん昏い場所に。


 古い記録の写しを、私は、そっと畳んだ。指が、かすかに、震えていた。それが恐れなのか、それとも、久しく忘れていた何か――あの人に、もう一度会えるかもしれないという、身勝手な期待なのか。自分でも、分からなかった。次の一歩は、決まっている。記録に残された、古い施設の跡地。もう使われていないはずのその場所に、次の手がかりがあるはずだ。危険なのは、分かっている。あの男は、私と同じ力を持つ。まともにぶつかれば、どちらかが消えるまで、終わらないだろう。それでも、行く。もう、後始末をするだけの掃除屋じゃ、終われない。


【詩織side】


 葵様の様子が、変わったことに、わたくしは、いち早く気づいていた。


 夜、部屋を抜け出す回数が増えた。戻ってくるたび、その横顔には、これまでとは違う、鋭い緊張が刻まれている。何かを、追っている。何かに、たった一人で、踏み込もうとしている。


 ある夜、わたくしは、寮を抜け出す葵様の背を、そっと追った。旧棟の裏。人気のない渡り廊下を、迷いのない足取りで進んでいく、その小さな背中。声をかけることは、できなかった。あの背中は、誰の同行も、拒んでいた。角を曲がって、闇に溶けて消えていく――ただ、それを見送ることしか、わたくしには、できなかった。


 翌朝、わたくしは、意を決して問うた。「葵様。……何を、お一人で抱えていらっしゃるのですか。わたくしにも、お聞かせください。あなた様の行く先が、危ういものなら、なおのこと」


 葵様は、少し、困ったように微笑んだ。「……ごめんね、詩織。これは、私自身の、けじめだから。誰も、巻き込みたくないの。あなたも。……あの子も」


 あの子。天音蓮のことだ。わたくしは、胸の奥が、ちくりと痛むのを感じた。葵様は、あの少年のことを、確かに、特別に思い始めている。それが、少しだけ、寂しくて。でも、それ以上に、心配だった。一人で背負おうとするあの方の癖は、いつか、あの方自身を、深い場所へと、引きずり込む。……わたくしは、決めた。たとえ命じられずとも、影から、あの方を追おう。それが、拾われた者の、最後の役目になるとしても。


 わたくしには、忘れられない日がある。行き場を失い、この力を持て余し、化け物と呼ばれて、消えてしまいたかった、あの日。葵様は、そんなわたくしに、手を差し伸べてくれた。「あなたの力は、あなたのせいじゃない」と。あの一言で、わたくしは救われた。だから、この命は、葵様のもの。あの方が、いちばん昏い場所へ向かうというなら。わたくしは、その影となって、どこまでもついていく。たとえ、あの方に気づかれなくても。それが、わたくしの、たった一つの誇りだった。


 葵様は、気づいていらっしゃるだろうか。ご自分が、いつのまにか、あの少年に、心を許し始めていることに。……悪いこととは、思わない。むしろ、嬉しい。あの、凍りついたようだった葵様が、少しでも、人らしい温もりを取り戻せるなら。ただ、心配なのだ。人は、大切なものが増えるほど、脆くなる。あの方が、また、何かを失うことに、なりませんように。わたくしは、夜空に、そっと祈った。

お読みいただきありがとうございました。

次回、いよいよ第2部完結です。そして、物語は第3部へ——どうぞお見逃しなく。

次話は明日21時ごろ更新予定です。

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