第33話 二つの正しさ
【双葉side】
翌朝、学園は、また、何事もなかったような顔をしていた。
昨夜、旧校舎の地下で、あれほどのことが起きたのに。消えた生徒たちは、いつのまにか、それぞれの寮のベッドで目を覚まし、「長い風邪で寝込んでいた」ことになっていた。地下の施設も、薬も、黒装束の男たちも、跡形もなく消え去っている。学園が出した通知は、たった一行。『一部で流れていた不確かな噂について、事実無根であることを確認しました』。
双葉は、その通知を、複雑な思いで見つめた。また、なかったことにされる。あれほどの惨劇も、あれほどの覚悟も。誰にも知られないまま、闇へと葬られていく。
(……颯太。でも、今度は、前とちょっと違うね)
(うん。……今度は、蓮くんも、知ってる。葵ちゃんの“本当”を。……あの子は、もう、一人で全部抱えてるわけじゃ、ないのかも)
その言葉に、双葉は、少しだけ、胸が軽くなった。ずっと、たった一人だった、あの子。その隣に、たとえ思想は交わらなくても、その“本当”を知って、なお隣に立とうとする子が、一人、現れた。それは、この学園の、どんな変化よりも、大きなことのように思えた。
【蓮side】
その朝、蓮は、一睡もできないまま朝を迎えた。昨夜見たものが、頭から離れない。地下ごと世界を消した、あの光景。灰原葵の、凪いだ目。そして、あの白い仮面の男が語った、彼女の過去。幼い頃に、大勢を消したという、その罪。
普通なら、恐れるべきなのかもしれない。あんな力を持つ相手を。だが、蓮の胸にあったのは、恐れではなかった。ただ、会って、話したい。それだけだった。あの子が、本当は何を思って、あの気弱な仮面を被り続けてきたのか。それを、本人の口から聞きたかった。守られていた側の自分に、その資格があるのかも分からないまま。それでも、蓮はいてもたってもいられなかった。一度でも、あの井戸の底のような目を見てしまった者は、もう、知らんぷりなど、できないのだ。朝の光が、窓から差し込む。蓮は、のろのろと起き上がった。今日、あの子に、会いに行こう。そう決めて、蓮は、制服に袖を通した。胸の中には、昨夜の恐怖よりも、確かめたいという思いのほうが、ずっと大きかった。
昼休み、蓮は、屋上で本を読んでいる葵を、見つけた。
いつもの、気弱な仮面。サイズの合わない制服。だが、蓮の目には、もう、昨夜のあの姿が、重なって見える。指先ひとつで、地下ごと世界を書き換えた、あの背中が。
「隣、いいか」蓮が声をかけると、葵は、少し困ったように、けれど拒みはせず、こくりと頷いた。蓮は、フェンスにもたれて、隣に腰を下ろす。
「昨日のこと、ずっと考えてた」蓮は、まっすぐ前を向いたまま言った。「俺は、この学園を変えたい。みんなが格付けされない、自由な場所にしたい。……その気持ちは、今も、変わらない」
「うん。……それでいいと思う」葵も、前を向いたまま答えた。
「でも、君は、そんな理想じゃ、目の前の子は守れないって言う。悪はなくならないから、誰かが引き受けるしかないって。……俺は、それも、間違ってないと思うようになった」蓮は、少し、言葉を選んだ。「たぶん、俺と君は、最後まで、分かり合えない。俺は“悪をなくしたい”し、君は“悪を引き受ける”。真逆だ。……でも」
蓮は、初めて、葵のほうを見た。
「どっちも、誰かを守りたいって、思ってる。そこだけは、同じだろ。だったら、分かり合えなくても、隣にはいられる。……違うか?」
「……天音くん。私はね」葵は、静かに言った。「たくさんの人を、消してきた。悪人だけじゃない。巻き込まれた人も。守れなかった人も。この手は、もう、血で汚れきってるの。そんな私の隣に、君みたいなまっすぐな子がいたら。……君まで、汚れてしまう」
「汚れてもいい」蓮は、即答した。「君が汚れながら守ってきたものを、俺も、一緒に背負いたい。それで俺も汚れるなら、それは、誇らしい汚れだ」
葵は、絶句した。この子は、本気だ。どこまでも、まっすぐに。……ずるい。私が、いちばん弱いところを、まっすぐに突いてくる。長いあいだ、誰にも言ってほしくて、でも二度と言ってもらえないと諦めていた言葉を、この子は、こんなにも簡単に、口にする。
葵は、しばらく黙っていた。それから、ふっと、力の抜けた笑みを漏らした。
「……変な子。私の正体を知って、化け物だって分かって。それでも、そんなこと言うんだ」
「化け物じゃない。君は、ただ、優しすぎるだけだ」
その言葉に、葵は、一瞬、泣きそうな顔をした。だがすぐに、いつもの気弱な葵に戻って、「……買いかぶりすぎだよ」と、小さく笑った。
「……ねえ、蓮くん」葵は、ふと訊いた。「どうして、そこまで私に構うの。正体も知って、怖い過去も聞いて。普通なら、関わりたくないでしょう」。蓮は、少し考えて答えた。「うーん……放っておけない、から、かな。理由になってないか。でも、それだけなんだ。困ってるやつがいたら、放っておけない。それが、たとえ、世界を消せる化け物でも」。葵は、思わず噴き出した。「化け物って、自分で言ったくせに」。二人は、顔を見合わせて、少しだけ笑った。その、なんでもないやりとりが、葵には、宝物のように思えた。二つの正義は、交わらない。それでも、この屋上の風の中で、二人は、確かに、同じ空を見上げていた。
【葵side】
この子と話していると、忘れていた感覚が、蘇ってくる。誰かと、言葉を交わす。分かり合えなくても、思いをぶつけ合う。それが、こんなにも温かいことだったなんて。……私は、長いあいだ、それを自分に禁じてきた。日陰に生きる者に、そんな温もりは贅沢だと。頼れば、また誰かを巻き込む。失う。だから、一人でいることを選んだ。それが、いちばん安全だから。誰も、傷つけずに済むから。
でも、今だけ。この屋上の風の中でだけは。私は、ほんの少しだけ、その温もりに身を委ねた。いつか、これも手放さなきゃいけない。分かっている。私の戦いは、この子を巻き込めないほど、昏いところへ向かっていく。だからこそ、今だけは。この、なんでもない昼休みの記憶を、そっと、胸の奥にしまっておこう。いつか、いちばん暗い場所に立ったとき、思い出せるように。……欲張りだな、私は。柄にもなく、そう思って、少しだけ、笑ってしまった。
笑うなんて、いつぶりだろう。演技じゃなく、心から。あの子の隣だと、ほんの少しだけ、私は“灰原葵”という、ただの女の子に戻れる気がする。その事実が、嬉しくて、そして、少しだけ怖かった。大切なものが、また増えてしまった。増えれば増えるほど、失うのが怖くなる。それでも、この温もりを、なかったことには、できなかった。
お読みいただきありがとうございました。第2部の山場をお届けしました。
彼女が何を背負い、何を“消して”いるのかその一端を見ていただけたなら幸いです。
物語は結末へ向かいます。面白かったら、ブックマーク・★評価で応援いただけると嬉しいです。
次話は明日21時ごろ更新予定です。




