第32話 勝者のいない戦い
【蓮side】
黒幕が消え、静寂だけが残った地下空間で、蓮はようやく立ち上がった。
消されずに残された、かつての“人形”たち――薬から解放された生徒たちが、あちこちで気を失って倒れている。全員、息はある。葵が、一人ひとり、丁寧に助けたのだ。戦いの最中でさえ、この子は、被害者を一人も見捨てなかった。世界を書き換えるほどの力を振るいながら、その端で、こんなにも細やかに、一人ひとりの命を拾っていた。
蓮は、葵に歩み寄った。何を言えばいいのか、分からなかった。礼を言うべきか。謝るべきか。どちらも、この子の背負ってきたものの前では、あまりにも軽すぎる気がした。それでも、言わずにはいられなかった。
「灰原。……俺は、何も分かってなかった」蓮は、絞り出した。「この学園を変えるなんて、偉そうに言って。その裏で、君がずっと、こんな地獄を、一人で。俺は、守られてたんだな。ずっと。何も知らずに」
「気にしないで」葵は、いつもの少し疲れた優しい声で言った。もう、狐面は外れている。「君は、君のやり方で、正しかった。誰かが声を上げなきゃ、変わらない。それは、本当のこと。……私には、もう、できないことだから」
「……なあ、灰原。やっぱり、一人で背負わなくても、いいだろ」
「言ったでしょう」葵は、静かに微笑んだ。「私は、これを選んでるの。同情は、いらない。……でも」彼女は、少しだけ目を伏せた。「今夜、君が、私の正体を知って。あんな過去まで、聞いてしまって。それでも、そんなふうに、心配してくれた。……それだけで、少しだけ、報われた気がする。柄にもなく、ね」
その笑顔は、いつもの気弱な仮面でも、冷たく凪いだ静けさでもなかった。ひどく疲れた、けれど、素の――ただの、女の子の笑顔だった。蓮は、その顔を見て、決めた。この子を、一人には、しない。たとえ、拒まれても。何度でも、隣に立とう。それが、今の自分にできる、たった一つの“正義”だと思ったから。
「灰原」蓮は、もう一度、口を開いた。「今日のことは、誰にも言わない。君の正体も、力のことも。約束する。……ただ、一つだけ覚えといてほしい。俺は、君を、怖いとは思わなかった。化け物だとも、思わなかった。ただ、すげえ優しいやつだって、思った。それだけだ」
葵は、しばらく蓮を見つめていた。何か言いかけて、やめて。それから、小さく「……ありがとう」と呟いた。その声が少しだけ濡れていたのを、蓮は、聞かなかったふりをした。
地下から見上げる空は、まだ暗い。だが、蓮の胸には、来た時とは違う、静かな熱があった。この学園には、まだ正体の知れない“本体”が潜んでいる。灰原葵という、途方もない孤独を抱えた少女がいる。自分は、あまりにも無力だ。それでも――やることは、決まった。強くなる。あの子の隣に、胸を張って立てるように。あの子の荷物を、いつか本当に、半分持てるように。それが、今夜、蓮が見つけた、新しい目標だった。遠い、途方もない目標。それでも蓮の胸は、久しぶりに、まっすぐ前を向いていた。
【葵side】
……変な子だ。本当に。
正体を知られたら、終わりだと思っていた。気味悪がられるか、利用されるか。そのどちらかだと。なのに、この子は、ただ、心配している。私の過去まで聞いて、なお、「一人にしない」なんて。
その言葉は、私の、いちばん柔らかいところに、まっすぐ刺さった。縋ってはいけないのに。甘えてはいけないのに。それでも、ほんの少しだけ、胸の奥のこわばりが、ほどけた気がした。長いあいだ、忘れていた感覚だった。……ありがとう。心の中で、そっと呟く。声には、出さずに。
でも、と私は思い直す。喜んでいる場合じゃない。黒幕は、逃げた。私の過去も、先代のことも、あの男に握られている。戦いは、まだ、終わっていない。むしろ、ここから始まるのだ。あの、いちばん昏い場所へ、私は、自分から踏み込んでいくことになる。……今度は、守る側じゃない。暴く側として。
それにしても、と私は、隣に立つ蓮を、そっと見た。この子は、私の全部を見て、それでも隣にいると言う。私の過去も、力も、孤独も。全部ひっくるめて、「怖くない」と。……何年ぶりだろう。誰かに、そんなふうに言われたのは。先代が、いなくなってから、初めてかもしれない。胸の奥の、ずっと凍りついていた場所が、ほんの少しだけ溶けた気がした。だめだ、と分かっていても。この温かさを、完全に拒むことは、どうしてもできなかった。……少しだけ。ほんの少しだけなら。この子のそばにいることを、自分に許しても、いいだろうか。そんな柄にもない願いが胸をよぎって、私は、慌てて首を振った。今は、だめ。まだ、何も、終わっていないのだから。……それでも、その温もりだけは、そっと胸の隅にしまっておいた。いつか、全部が終わった日に、思い出せるように。
【双葉side】
双子は、少し離れた場所から、その二人を見ていた。やがて詩織が現れ、倒れた生徒たちの後始末を、静かに始める。この事件も、また、なかったことにされるのだろう。誰も、この地下で何があったか、知らないまま。助けられた子たちも、自分が助かったことすら、気づかないまま。
(……でも、私たちは、知ってるよ)双葉は、心の中でそっと呟いた。(葵ちゃん。あなたが何をしたか。どれだけ頑張ったか。私と颯太は、ちゃんと見てたから)
やがて、葵と蓮が、並んで地下の階段を上ってくるのが見えた。相変わらず、二人の間には埋まらない距離がある。思想は、交わらない。それでも、さっきまでとは何かが違った。蓮はもう、葵を「守るべき弱者」としては見ていない。葵も、蓮を、ただ「遠ざけるべき光」としては見ていない。二人の間に、名前のつかない新しい何かが、芽生えかけている。双葉には、それが少しだけ嬉しかった。
(颯太。私たちの班、変な人ばっかりだね)(うん。……でも、いい班だよ)。双子は、そっと微笑み合った。班の隅で、ただ見ていることしかできない自分たち。それでも、この二人の“正義”を、いちばん近くで見届けられるのは、きっと、自分たちだけなのだ。その役目を、双葉は、誇りに思い始めていた。無力でも。ただのモブでも。この物語を、いちばん近くで見ている、たった二人の証人として。
誰にも讃えられない、必要悪。その細い背中を、夜の底で、二人だけがそっと見守っていた。まっすぐな勇者は、その隣で、まだ言葉を探している。二つの正義は、交わらないまま。それでも確かに、この夜、初めて同じ地平に立っていた。嵐は、去った。だが双子は、まだ知らない。この夜、逃げ去った白い仮面の男が、次に牙を剥くとき、この学園を――そして、葵の過去そのものを、根こそぎ揺るがすことになるのだと。
お読みいただきありがとうございました。
続きが気になった方は、ブックマーク・★評価で応援いただけると、とても励みになります。
次話は明日21時ごろ更新予定です。




