第31話 泥の底で
【双葉side】
その瞬間を、双子は、生涯忘れなかった。
狐面の少女が、右手を持ち上げた。ただ、それだけだった。
次の瞬間、地下空間を満たしていた、あの紫色の筒が――「なかった」。割れたのでも、砕けたのでもない。ただ、そこに「あった」はずのものが、次の瞬きには「はじめから無かった」ことになっていた。ガラスも、薬も、それを生み出していた装置も。過去に遡って、その存在ごと、そっと消しゴムでこすり消されたように。
双葉の脳が、理解を拒んだ。”あの”夜と同じ。いや、それ以上だ。地下空間そのものが、端から静かに消えていく。剥き出しの壁が。無数の機械が。膝をついていた黒装束の男たちが。悲鳴すら、上がらない。悲鳴を上げる“時間”ごと、消されているからだ。
音がなかった。破壊には、音があるはずだった。崩れる轟音。爆ぜる衝撃。断末魔。なのに、ここにはただ、静けさだけがある。存在が一つ消えるたび、その分の音と熱と気配が、そっと世界から引き算されていく。双葉は、その静けさが、どんな爆発よりも恐ろしかった。これは、破壊ですらない。ただの、削除だった。この世界から、都合の悪い一段落を、まるごと消していく、神の消しゴム。
双葉は、思い出していた。第1部のあの夜、初めてこの“現象”を見たときのことを。あのときは、ただ、恐ろしかった。でも、今夜は、少しだけ違う。今は――哀しかった。この、途方もない力を、あの子は、たった一人で抱えてきた。誰にも見せられず、誰にも分かってもらえず。こんな、人の理解を超えた孤独の中で。双葉の頬を、いつのまにか、涙が伝っていた。(葵ちゃん……)。声にならない呼びかけだけが、感覚共有の糸の上を、静かに流れていった。
【葵side】
(――さようなら)
私は、心の中で呟く。誰にも聞こえない、いつもの独り言。
この施設ごと、消す。ここで作られた薬も、それを卸してきた仕組みも。そして、この黒い手も。ずっと掴めなかった。ずっと逃げられてきた。でも、今夜は同じ場所にいる。逃がさない。今度こそ。
力を使うのは、いつも怖い。こんなにも簡単だから。指一本で、世界の一部を書き換えられる。「あった」を「なかった」に変えられる。人も、物も、事件も。あの日から、ずっと。この簡単さに呑まれないよう、私は両手で、必死に手綱を握ってきた。一度でも、たがが外れれば。私は、また、あの日の私に戻ってしまう。守るべきものすら、消してしまう、あの、無邪気な怪物に。
だって、知っているから。この力で、私が昔、何を消してしまったのかを。この手のなかにあった、いちばん小さな温もりを。悪を消すつもりで振るった力が、その温もりごと、この世から拭い去った。「なかったこと」にできるはずのこの力でさえ、それだけは、二度と、戻せなかった。──それが誰だったのか。今はもう、口にすることさえ、私には許されていない。
だから、私は演じてきた。無能を。ただのブースターを。誰にも、この力を悟らせないように。畏れられれば人は離れ、頼られれば際限がなくなる。どちらも、もう知っている。だから日陰に。ずっと、日陰に。……でも、今夜だけは。この男を消すためだけに、私は、その封印を、解く。
力が、指先から、溢れていく。久しぶりの、この感覚。世界の“設定”を、直接、書き換える感覚。「この施設は、存在しない」。そう念じるだけで、コンクリートも、機械も、悪意も、順番に、この世から差し引かれていく。抗う者は、いない。抗う、という選択肢ごと、消えていくからだ。
……ああ、そうだ。この、全能感。あの日も、私は、こうだった。悪を消すたびに、世界が、少しずつ、きれいになっていく気がして。気持ちよくて。正しいことをしているのだと、信じて疑わなかった。その果てに、私は、いちばん大切なものを、この同じ手で、消した。だから、怖い。この感覚が。今も、心のどこかで、気持ちいいと感じている、自分自身が。私は、両手の手綱を、いっそう強く握り直す。消すのは、この男だけ。この施設だけ。それ以外は、一人も、傷つけない。絶対に。あの日の、二の舞は、二度と、繰り返さない。
【蓮side】
蓮は、腰を抜かしたまま、その光景を見ていた。
世界が、書き換わっていく。目の前で。あの、気弱だと思っていた少女の、たった一振りの手で。蓮が命を懸けて、薬にまで手を出す連中を相手に、必死でもがいていた、その理不尽の全部が。彼女にとっては、指先一つの作業に過ぎなかった。
――次元が、違う。蓮は思い知った。自分が「変える」と息巻いていた、この学園の闇を。この子はずっと昔から、たった一人で消し続けてきた。誰にも気づかれず、誰にも讃えられず。こんな、理解も追いつかない力を抱えて、あの気弱な笑顔の下に、全部隠して。
「……はは」乾いた笑いが漏れた。「なんだよ、それ。俺は、いったい……何と、戦ってるつもりだったんだ」
悔しさは、もう、なかった。ただ、途方もない孤独が、そこにあった。この子がたった一人で見てきた景色の、あまりの寂しさに、蓮の胸は締めつけられた。あんな力を持って、なお、誰かを憐れみ、誰かを守り、そして自分だけは、決して救われようとしない。それが、灰原葵という、少女だった。
蓮は、震える足で、立ち上がろうとした。何かをしなければ。この子を、この孤独から、引きずり出さなければ。だが、体は、恐怖と疲労で言うことを聞かない。ただ、見ていることしかできない。あの子が、たった一人で世界を書き換え、たった一人で、その重さに耐えているのを。……悔しい。力がないことが、これほど悔しいと思ったのは、生まれて初めてだった。それでも、蓮は目を逸らさなかった。せめて、見届ける。この孤独を知っている人間が、一人でもいると、いつか、この子が気づけるように。俺は勝手に、見ている。勝手に、隣にいる。それくらいの我儘は、許されてもいいはずだ。
【双葉side】
地下空間の、ほとんどが消え去っていた。がらんとした空洞だけが残る。その中心で、仮面の男だけが、消されずに立っていた。
「見事だ」仮面の男が、拍手をした。「やはり、君の力は、美しい。だが――私を消すには、まだ詰めが甘いね」
男の姿が、ぐにゃりと歪んだ。まるで、水面に映った像のように。葵が、はっと手を伸ばす。だが、遅かった。仮面の男は、その場から掻き消えていた。消されたのではない。自分から、消えたのだ。葵と同じように。痕跡ひとつ、残さずに。
(……颯太。今の、あいつも、葵ちゃんと同じ……!)
(うん。……逃げた。葵ちゃんの力から、逃げ切った。あんなの、初めて見た)
狐面の少女が、消えた空間を、しばらく見つめていた。その拳が、固く握りしめられているのを、双葉は見た。届かなかった。あれほどの力をもってしても。あの黒い手にだけは。双葉の胸に、これまでとは違う、重い予感が広がっていく。あの子と同じ力を持つ“もう一人”。それが、この学園の底に、まだ潜んでいる。今夜の戦いは、終わりではない。もっと大きな何かの、始まりに過ぎないのだと。
(葵ちゃん、あんなに強いのに)双葉は、震える声で思った。(あの人にだけは、届かない。……ねえ颯太。葵ちゃん、これから、もっと危ない場所に、行こうとしてるよね)(うん。……あの仮面を追って。たぶん、たった一人で)。双子の胸に、同じ不安が広がる。あの子を、一人にしたくない。でも、自分たちには、追う力さえない。その無力さが、いつにも増して重かった。それでも双葉は、消えた空間を見つめる、あの小さな背中から、目を離さなかった。
【葵side】
(……また、逃げられた)
私は、消えた空間を睨む。あの歪み方。あの消え方。間違いない。あの男は、私と同じか、それ以上のことができる。この学園の底に、ずっと巣食っていた、もう一つの怪物。
そして、あの男は、私の過去を知っていた。先代のことも、匂わせた。……次に会うときこそ、必ず。あの仮面の下を暴いて、全部を、終わらせる。あの日から続く、この長い夜を。私は、狐面の奥で、そう誓った。指先が、まだ、かすかに震えていた。恐怖ではない。あの男への、静かな怒りで。
あの男を追う道は、きっと、私の過去の、いちばん暗い場所へと続いている。怖くないと言えば、嘘になる。でも、もう逃げない。今度は、私が、追う番なのだ。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




