第30話 過去の輪郭
【蓮side】
地下空間の奥、闇の中から、ひとつの人影が進み出た。
黒い、ゆったりとした衣。顔は、のっぺりとした白い仮面で覆われている。年齢も、性別も分からない。ただ、その佇まいだけで、蓮の背筋に、氷を差し込まれたような悪寒が走った。膝をついていた上級生たちが、いっせいに、より深く頭を垂れる。この施設の、本当の主。
「掃除屋。久しぶり、と言うべきかな」仮面の奥から、くぐもった声がした。「いつも、私の仕事の後始末を、ご苦労なことだ。おかげで、この学園は、今日も“何事もない”。感謝しているよ、本当に」
「……あなたが、この学園に薬を卸していた、黒幕」葵の声は平坦だった。だが、そこに微かな緊張がある。蓮は初めて、この気弱でも冷徹でもない、彼女の声を聞いた。「ずっと、あなたを探していた。私に汚れ仕事をさせて、都合が悪くなれば証拠ごと消す。第1部のあの夜、幹部の口を封じたのも、あなたね」
「さあ、どうだったかな」仮面の男は、楽しげに首をかしげた。「だが、掃除屋。君も、人のことは言えないだろう。──君が、昔、何をしたか。私は、知っているよ」
葵の肩が、びくりと震えた。
「正義感に燃えた、幼い君が。悪を消せば世界は救われると、信じて疑わなかった、あの頃。……その手が、最後に何を消したのか。君はもう、忘れたふりをしているだけだろう。ねえ、灰原葵さん」
「……黙れ」
初めて、葵の声に、はっきりとした感情が滲んだ。蓮は、息を呑んだ。灰原が。あの、いつも凪いでいる灰原が、こんな声を出すのか。
「あなたに、何が分かる」
「分かるとも。私と君は、よく似ている。同じ力を持ち、同じように世界を“書き換えて”きた。違うのは、君が罪悪感に縛られて日陰に隠れ、私はそれを利用する側に回った。それだけの違いさ。──なあ、いっそこちら側に来ないか。その力を、罪滅ぼしなどという下らんもののために使うのは、もったいない」
「断る」葵は即座に言った。「あなたと私は、似ていない。あなたは力を、自分のために使う。私は、償いのために使う。それだけの違いが、私には、すべてなの」
「償い、か」仮面の男は、くつくつと笑った。「その償いに、終わりはあるのかね。何年、日陰にいれば、君は許される。……ないよ、永遠に。君はただ、罰を受け続けたいだけだ。楽になりたくないだけだ。それは償いではなく、依存というのだよ」
葵は、答えなかった。その沈黙が、図星を物語っていた。依存。その言葉は、蓮の胸にも突き刺さった。違う、と叫びたかった。灰原は、そんなんじゃない。だが、葵が否定しないことが、何より蓮を苦しめた。この子は、自分を許すことを、自分に禁じている。罰を受け続けることでしか、生きられなくなっている。だったら、その呪いを解けるのは、誰だ。蓮は、拳を握った。──俺だ。根拠はない。でも、そう思った。この子の呪いを解くのは、力じゃない。たぶん、もっと別の、何かだ。
同じ力。書き換える。幼い頃の、消せなかった何か。断片的な言葉が、灰原葵という少女の、底知れない過去の輪郭を、うっすらと浮かび上がらせていく。この子は、いったい、どれだけのものを、その細い背中に背負ってきたのか。守るべきものまで、消してしまった。そう言われて、否定しなかった。それは、本当のこと、なのか。
だが、蓮の胸に湧いたのは、恐れでも、幻滅でもなかった。ただ、途方もない痛みだった。幼い子どもが、たった一人で、何かを取り返しのつかない形で失って。誰にも許されず、自分で自分を罰し続けて。それが、この子の、生きてきた道なのか。
「灰原」蓮は、思わず、声をかけた。「そいつの言うこと、全部が本当だとしても。それは、子どもの頃の君だろ。今の君は、あの子たちを、一人残らず助けようとしてる。それの、どこが化け物なんだよ」
「……黙ってて、天音くん」葵の声は、硬かった。「今は、この男に集中させて。あなたの、その優しさは……今夜だけは、私を、鈍らせる」
蓮は、口をつぐんだ。だが、拳は、握りしめたままだった。この子を、この男の言葉から、守りたい。力では、遠く及ばない。それでも、せめて、言葉だけでも。そんな無力な思いが、蓮の胸で、熱く渦を巻いていた。
【葵side】
この男は、知っている。私の、いちばん昏い場所を。
あの日のこと。私が、この力で、守りたかったものを、この手で消してしまった、あの日のこと。先代が、その罪を黙って肩代わりして、姿を消した、あの日のこと。
どこまで知っている。なぜ知っている。──その問いが浮かんだ瞬間、心臓が、嫌な音を立てた。落ち着け。挑発だ。私を揺さぶって、隙を作らせるつもり。乗るな。この男の言葉に、一つでも頷けば、そこから崩される。
でも――蓮に、聞かせたくなかった。私の過去を。あの子の、あの澄んだ目の前で、私が“何をした者”なのかを、暴かれたくなかった。せめて、あの子の中にだけは、少しでも、まともな私でいたかった。……もう、無理だけど。
狐面の下で、私は唇を噛む。もう、いい。今夜で、終わりにする。この男を、ここで消す。第1部から、ずっと掴めなかった、この黒い手を。先代のことも、あの日のことも、この男が知っているなら。なおのこと、逃がすわけにはいかない。たとえ、蓮の前で、どんな怪物の姿を、さらすことになっても。
──なぜ、この男は、あの日を知っている。あの場にいた者は、もう、いないはずなのに。ひとつの可能性が、氷の針みたいに胸をかすめて、私は、慌てて振り払った。今は、考えるな。まず、消す。話は、それからだ。
あの日の感触だけは、今も、指の先に残っている。焼けるような正義感。目の前の悪を消せば、みんなが助かると、信じて疑わなかった。だから私は、迷わなかった。──迷わなかったことが、間違いだった。気づいたときには、もう、消したあとだった。悪も、その悪が巻き込んでいたものも。私が、いちばん守りたかったものも。「なかったこと」にできるはずのこの力でさえ、それだけは、二度と、元に戻せなかった。だから、私は笑わない。笑う資格が、ないから。
迷いを断ち切るように、私は、右手を、静かに持ち上げた。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




